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正法眼蔵 仏教 8

非常に優れた一つの心とは、決して心というものが客観世界と別にあるわけではなくて、土があり、石があり、砂があり、小石があるという事が我々の心があるということの唯一の証左でしかない。このように土や石や砂や小石とかというものも所詮は、我々の心があればこそそこにあると同時に、心、土、石、砂、礫という言葉を超越して、眼の前に土があり、石があり、砂があり、小石がある。釈尊が伝えられた最高の一つの心というものを正しく伝承してきたという事実は何かといえば、今ここで述べたような関係であろう。

ところが抽象的な論議以外に釈尊の伝えられた心があると主張をする人々は、今ここで述べたような心と客観世界とが全く一つのものであるという事、あるいは釈尊の教えと心とが別のものでないという主張を知ってはいない。したがって、このような理論以外に正しく伝えられた釈尊の心があるという間違った教えを信じて、釈尊の教えというものを誤解してはならない。もしある人が言うように、教え以外に別に伝えられた心というものがあるとするならば、釈尊の教えというものは心とは別に伝えられたものだと主張するのか。

心とは別に教えが伝えられたと主張するならば、心を離れて教えが伝承されることはあり得ないのであるから、たった一つの言葉、半分の詩の文句と言えども伝えることのできるはずがない。そして心の他に何か別に伝えられたものがあるという主張をすべきでないとすれば、教え、理論というもの以外に、別に伝えられたものがあると主張してはならないのである。

※西嶋先生解説
こういう風に仏教界ではごく当然の常識として、「不立文字、教外別伝」という事が主張されておるわけでありますが、道元禅師は、それは仏教の立場から見て正しくないという事をここでは非常にはっきりした形で出されておるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
柔軟心という先生のお話で、道元禅師が老婆心という事もよく言ってられるようなんですが、それについてお教えいただければと思います。

先生
老婆心というのは、道元禅師が言われておる一つの例としては、金沢の大乗寺を開かれた徹通義介禅師の人柄を、老婆心が足りないという批評をされたというふうに伝えられておるわけであります。徹通義介禅師は非常に厳しい性格の方で、おそらく弟子に対する訓育その他が厳しかったんだろうと思います。そういう点で、確かに厳しいことは結構なことではあるけれども、それと同時に、母親と同じような優しさもなきゃならんぞという事が、道元禅師が老婆心が欠けておるという点で、徹通義介禅師に教えられたところだろうと考えることができるわけです。

ですからその点では、教育というものに関連しても、厳しいだけでは人は育たん。ガリガリ、ガリガリ、ムチを当てて叩いておったんでは、子供はなかなか育たん。かわいがるところもあって、厳しさとやさしさと両方あった時に、子供は伸びていく。そういう事情があると思います。そういう点では、優しさという事が老婆心という事とだいたい意味が通ずるんではないかと、そういうふうに思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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