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正法眼蔵 仏教 7

ここではっきり知っておかなければならないことは、釈尊の心とは何かという問題に関連して、釈尊の心とは釈尊の持っておられた眼の玉であり、日常生活において使い古したところの木の柄杓である。釈尊の心とはこの世の一切のものであり、あらゆる世界そのものであるから、山も、国も、大地も、太陽も、月も、星も、釈尊の心と全く一つのものである。

※西嶋先生解説 
このことはどういうことを言っているかというと、よく私がマッチの譬えで説明するわけだけども、火というものは、マッチ棒とマッチの箱をすり合わせるところに生まれてくる。我々の住んでいる現象世界、現実と言うものはこの火のようなもので主観というものと、主観を取り巻く客観世界というものとがあって、この宇宙の中で我々が一生懸命に生き、一所懸命に働けばこそあり得るのがこの宇宙であり我々である。だからその点では、宇宙も我々も同時に存在し同時に消滅するもの。その点では、心というものと、この我々の住んでいる世界というものとは、まったく一つのもの。それを両方こすり合わせた時に生まれてくる火のようなものが我々の住んでいる世界。

本文に戻ります。
したがって釈尊の説かれた教え、仏教哲学というのは何かといえば、単なる理屈ではなくて、森羅万象(宇宙の一切の現象であり一切の事物)である。したがって外と言うのは何処かというと、内と外というものが人間の頭の中で考えられた様に二つあるのではなく、外と言うのは、この我々が住んでいる、我々が現に坐っているこの場所である。この現実の世界の事であり、この現実の世界における出来事である。

また釈尊の教えが正しく伝承されてきたと言われているけれども、その正しく伝承されたというのはどういうことかというと、自分自身というものがここにあって、誰から教えられたのかわからないけれども、とにかくわかるようになったというのが正しく伝承されてきたという事の意味である。

※西嶋先生解説
仏教界の諸先輩がそれぞれ釈尊の説かれた真実を自分のものにされたわけだけれども、師匠から事細かく教えられてやっと理解がついたという事ではなくて、弟子自身が一所懸命仏道修行をして、師匠が考えていること、師匠が日常生活で行っておることと同じことを自分もやれるようになったという事にすぎない。だからそういう点では、師匠から何かをもらったという事よりも、自分自身が自分自身でつかんだという事にならざるを得ない。



              ―西嶋先生の話―
                          --つづき

企業の競争とは何かと考えてみますと、一つは仕事のやり方の競争だと思う。同じ仕事をやる場合、どういう仕事のやり方をしたら経費が少なくて沢山の収益が上がるか、と言う仕事のやり方の競争が企業の競争だと思います。ですから優秀な企業になるためには、仕事のやり方を絶えず考えて、時代に遅れない様に、毎日のように改善していかなければならないという問題があるわけであります。その事さえやっておれば、企業と言うものは永遠に発展する。

ただ、過去の経験にこだわって、同じ様なやり方で毎日を送り、その事が原因になって仕事のやり方が時代遅れになってしまうと、企業としては非常に危険な状態に追いやられる恐れがある、とそういう問題があろうかと思います。そういう事を考えてきますと、企業の中にいる人々も柔らかい気持ちを持っている事が非常に大切だと思います。周囲の状況が変わってきた、やり方を変えなければと言う場合に、誰もが気持ちを一つにして新しいやり方に取り組んでいくと言う態度が、企業が発展していくためにはどうしても必要だと、そういう問題があろうかと思います。
  
道元禅師が中国から帰ってこられたときの感想に「自分は柔軟心を持って帰って来た」と言われたことの意味は非常に大きい。我々の人生というものが抱えている様々な問題のすべての解決として「柔軟心」があるのではないかと、そう言う事を考えざるを得ないと言う問題があるわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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