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正法眼蔵 仏教 6

釈尊の説かれた教えの中における一つの心とは何か、あるいは一つの心を中心にして説かれた釈尊の教えとは何かという事をまだ聞いたことがない癖に、釈尊の説かれたたった一つの心と別に釈尊の教えがあると主張する。しかしながらおまえ方(教外別伝を説く人々)の言うところのたった一つの心というものは、釈尊が説かれたところのたった一つの心というものとは別である。

釈尊の説かれた教えの他に、たった一つのこころがあると主張しているところから見ると、おまえ方が釈尊の教えだと信じている教えというものは、本当の意味で釈尊の教えと言うことができないであろう。仮に釈尊の説かれた抽象的な理論の他に、別に伝えた心というものがあるという間違った考え方を師匠から弟子へ、師匠から弟子へと伝えて来たとしても、彼らはまだ内とは何か、外とは何かという事を理解していないから、言葉と理論とがぴった合っているというところまではいっていないのである。

釈尊以来、正法眼蔵(正しい宇宙秩序の眼目の蔵)というものを、一系に伝えてこられた祖師方が、どうして釈尊の教えを一系に伝えてこないと言う事があろうか。まして釈尊ご自身が、どうして仏教徒の実際にやるべき仕事以外の教えと言うものを説かれるはずがあろう。そして釈尊ご自身がすでに経典を通して一系に伝える教えと言うものを現に今日まで伝えておられるのであるから、およそ仏教の理解において仏祖(真実に到達した人々)がどうしてこの釈尊の教えというものを滅却する事があり得よう。

この様な理由から、釈尊が摩訶迦葉尊者に伝えられた優れたたった一つの心というのは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗などによって表わされる仏教哲学であり、十二分教によって表わされる仏教経典に他ならない。大乗経典であり、小乗経典がまさに釈尊が摩訶迦葉尊者に伝えられた優れたたった一つの心に他ならない。



              ―西嶋先生の話―
                          --つづき

柔軟心という事は、今日の我々の日常生活においてもなかなか大切な事です。柔軟心とは何かといえば「こだわりのない心」という事である。我々は普通、色々な原則を信じ込んで、その原則に従って生きるという事をやるわけであります。しかし原則にも、正しい原則もあれば、間違った原則もある。間違った原則を一所懸命「これが大事だ!」と押し通そうとすると、あっちこっちでぶつかって、原則そのものが人間に災いを及ばすと言う問題も間々ある訳であります。

それから原則というものが、いつでも通用するとは限らない。上り坂の時に通用する原則が、下り坂の時に通用するかと言うと中々そうはいかない。上り坂の原則を下り坂の時に無理して使おうとすると、かえってその原則を使った事がはるかに大きなマイナスをもたらすと言う心配もあるわけであります。ですから原則を信じ込んでこだわると言う事、これも大いに警戒しなければならない問題を含んでおるわけであります。

それからまた、我々には執着というものがある。過去において経験したものに固執すると言う考え方、習慣があるわけであります。そういう過去に対するこだわりがないと言う事も、また柔軟心という意味であろうかと思うわけであります。そういう点では、我々の仕事というものに関連して考えてみましても、何か新しい改革をしなければならないと言う話が起きた場合に、比較的弾力的な気持ちを持っておりますと、どう対処するかと言う態度がわりあい楽に取れるという問題があるわけであります。

ところが原則にこだわるとか、あるいは過去の経験にこだわると言う様な事がありますと、仕事のやり方一つにしても、それを変えていくと言う事について途轍もない抵抗があるわけであります。個人自身に抵抗があると同時に、人々が集ってつくっている組織という中でも、非常に大きな抵抗というものがあるわけであります。
                                         
                        つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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