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正法眼蔵 仏教 4

ある人が言うには「釈尊がその一生にわたって様々の経典に述べられた教えというものを説かれたけれども、その経典に説かれた以外に、非常に優れた一つの心というものを摩訶迦葉尊者に正しく伝えられて、それが正しい後継者から正しい後継者へと一系に伝えられてきた。

したがって抽象的な理論というものは、その場その場における遊戯的な議論であって、別に伝えられた心というものこそは、我々の心の中に内在するところの真実である。このように正しく伝承された一つの心というものを、教外別伝(経典に説かれた教えとは別個の伝承)というのである。

したがってそれは、声聞・縁覚・菩薩などという真実の探求方法における三種の区分や、ス-トラ、ゲ-ヤ、ヴイヤ-カラニヤ、ガ-タ-、ウダ-ナ、ニダ-ナ、アヴァダ-ナ、イティヴリタカ、ジャ-タカ、ブァイプルヤ、アドブタ・ダルマ、ウパデシャなど十二種の区分に代表される教典に盛り込まれた教えなどの説くところと同一である筈がない。そのように一つの優れた心というものが問題なのであるから、直接に人の心を指し示し本質を現わして諸仏(真実を得た人々)になる」と。


               
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先日、仏教講演会の誘いがありました。講演なさる方は有名な小説家が一名、駒澤大学の先生が一名なんですね。私は時間的にかち合わなくて行けなかったんですが、大勢の人が聞きにこられた様です・・・。やっぱり、自分の体を使って毎日坐禅をするなり、何か行に励むとかと言う事になりますと、続かない人がほとんどですよね。話だけ聞くというのは・・・。
 
先生
そうですね。だから仏教を勉強する上において、一番警戒しなければならない事は思想を置き換える事なんです。修行を思想と置き換えてしまって、本を読んでわかったつもりになるという事は非常に危険な事だと思います。思想の理解の中に仏道はない。釈尊の教えの実体は無いんです。ところがそう言う思想に置き換えてしまうと、本を読んでわかったつもりになって、それで問題をやり過ごしてしまうと言う心配があります。

そういう点では坐禅が衰えている事と、仏道が衰えている事とは一つの事だと思います。そういう形で、思想と修行と置き換えてしまうとどんな説明も出来るわけです。しかし、仏道とは無関係になるという心配があります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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