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正法眼蔵 仏教 2

「仏教」の巻、本文に入ります。

過去において諸仏(真実を得られた方々)がたくさんおられるけれども、それらの方々が言われた言葉というものが仏教である、釈尊の教えである、真実の教えである。このような真実の教え、真実の言葉というものは、諸仏(真実を得られた方々)が、やはり諸仏(真実を得られた方々)に対して説かれ、人に聞かせようとすることよりも、真実なるがゆえに説かれたところであるから、真実の教えとして正しく伝承されて来たのである。これが釈尊の教えを説くという事の意味である。

そして、この教えを説く諸仏(真実を得られた方々)は、この様な教えがあればこそ具体的に姿を現すのである。この様な教えがあればこそ平安の境地にわが身を置く事ができる様になるのである。そしてその様な諸仏が物質の最小単位の中にも出現されるのであり、またその物質の最小単位の中で平安の境地を得られると同時に、宇宙全体の中にも出現し、宇宙全体の中で平安の境地を得るという事でもある。

※西嶋先生解説
このことはどういうことかというと、我々の具体的な日常生活というものはこういう意味を持っているという事。細かい最小単位の物質的な単位の中で我々は生きているのであるし、また宇宙全体の中でも生きている。それからまた、一瞬一瞬の生存でもあると同時に、無限の中における存在でもある。だからこれは単に諸仏というようなことで、仏様の事だけ言っておるわけじゃない。我々人間のあり方というものがすべてこう。

本文に戻ります。
この様に諸仏も我々も物質の最小単位、あるいはほんの一瞬間、一瞬間の中で出現するのであるけれども、決して欠けたところのない性格そのものである。そしてまた宇宙全体、あるいは永遠の時間の中においての出現ではあるけれども、何か欠けたものがあって、それを一所懸命に補うために努力しているという状態ではない。

したがって、朝、生まれて来た子供が夕べには死んでしまったということがあったとしても、あるいは朝、真実に到達したけれども、その夕方にはもうこの世を去らなければならなかったという諸仏の場合にも、その仏としての性質が欠けるということは決してあり得ない。たった一日しか生きなかったのであれば、その持っている性質は僅かなものであると仮に主張するとするならば、釈尊の八十年の生涯も決して長いとは言えない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
生まれてすぐぱっと死んだ、一瞬で死んだ場合でも、それは永遠の意味があるわけで・・・。宇宙と変わらない絶対のものだという事ですか。

先生
そういうことですね。だから人生の価値は、長い短いじゃないという事ですね。

質問
般涅槃(はつねはん)、これは至福の世界と解説しておって、転じて消滅、つまり死ぬことだとおっしゃいますが、至福の世界イコ-ル死ですか。

先生
いや、その点では、般涅槃という事の意味には、非常にバランスのとれた静かな境地という意味と、それから死ぬことと、二つの意味があるわけですね。だからそれを強いて一緒にするという必要はないわけですね。ただ、死というものについては、電気の消えた状態という事もいえると思うんですよね。つまり、もう波風が立たなくなった。働かなくてもよくなった状態。だからそういう点では、非常に静かな状態というふうに考えても間違いないという風に言えると思います。

これは先ほどもちょっと話したんですけれども、私はテレビでよくマラソンを見るわけです。そうするとみんな一所懸命走っているわけですけれども、あのマラソンレ-スが、ゴ-ルが仮にないとしたら、みんなやるのが嫌になっちゃうだろうと思う(笑)。永遠に走って行かなきゃならんという事だとね。とにかく一定の距離を走ればゴ-ルに入れる、休めると思うから一所懸命やっているだけで、我々の人生だって、永遠に一万年経っても終わりが来ないとなると「それは大変結構な人生だ」というふうに感ずるかどうか。

その点では、私も六十才位生きて来たんだけれども、もう一度「オギャ」と生まれた時からやり直しをしろと言われたら、これは御免こうむりたい。正直言って(笑)。たいしていい生涯でもなかったけれども、まあ、いろんなことがあったわけですよね。そういうことをもう一回やり直しさせられたんじゃ、とてもかなわんという気はある。そうすると、その点では、人生が長いという事が誰でもが本当に願っていることかどうかというと、どうもそうはいかんような気がする。もうこの辺で休ませてくれ、という事だってあり得ると思う。

だからそういう点では、長い、短いというようなことは、常識的に考えているほどはっきりしたものじゃなくて、立場、立場によっていろんな考え方ができるものだという事が言えると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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