トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行仏威儀 51

この様な宇宙が真実を説いていると言う考え方からするならば、三世諸仏(過去・現在・未来と言う永遠の時間の中で真実を得られた方々)は、過去・現在・未来のあらゆる時間において、宇宙によって教えられているのである。三世諸仏は過去・現在・未来のあらゆる時間において、真実そのものによって教えられているのである。三世諸仏は過去・現在・未来のあらゆる時間において、自分自身によって教えられているのである。

我々の日常生活は悩みも多く、問題も多く、様々に入り組んでいて、中々その障害から脱け出せないというのが実情であるが、その様なもつれあった難しい事態というものが、風も吹かないその前にバッサリと切り落とされてしまうという状態があり、それが「行仏」の境地であり、そういう「行仏」の境地においては、天地すべてが我々の前にはっきりと見えてくるという事である。

※西嶋先生解説
これは、我々の日常生活で、悩んでいる時と、何らかの形で考えが吹っ切れて、「よしやろう」という事で立ち上がっって行動を起こすときとの関係を見てみればよくわかることであります。我々は決して悩みがないわけではない。いろんな事でくさって大いに悩む
という事はあるけれども。ある時点で「なあんだ、こんなこと考えてもしょうがない」「とにかく問題を解決するために頑張ってみよう」というふうな気持ちを起こすと、そこでコロッと自分の気持ちも変わるし、周囲の状況も変わってくるわけです。それが我々の人生。だから人生というのはグジャグジャと考えて悩んでおるだけでは、人生を生きていることにならない。「よし!」という事で考え方を切り替えて、一所懸命、問題の解決に取り組むときにはじめて人生がある。

本文に戻ります。
この圜悟克勤禅師の一言によって、在家ではあったが仏道の理解に非常に優れていた維摩居士も、維摩居士以外の人々も余すことなく打ち破られてしまった。すなわち法説法(宇宙が真実を説いている)し、法行仏(宇宙が真実を実践している)し、法証仏(宇宙が真実を体験している)し、仏説法(真実が宇宙を説き明かしている)し、仏行仏(真実が真実を実践している)し、仏作仏(真実が真実になっている)というふうに言うことができる。

結局、ここに沢山の言葉で形容されている事態とは何かといえば、人間が一所懸命になって働いているときの姿である。それが、行動する真実を得られた方々に具わる威風と呼ばれるものである。この様な理論と言うものが我々の住んでいる天地一杯にみなぎり、また過去・現在・未来と言うあらゆる時間に行き渡っている。この原則を理解できた者は、決してこの理論を軽々しく扱わないし、この原則がしっかり理解できた者にとっては、いいかげんな形でそれを使うという事はないのである。この「行仏威儀」と言う事に関連した理論と言うものは、非常に価値の高い理論であるから軽率に使うわけにはいかない。

          「正法眼蔵行仏威儀」
           西暦1241年旧暦10月の中旬
           観音導利興聖宝林寺において書き記した。  
           僧道元

※西嶋先生解説
以上が「行仏威儀」の巻であります。「行仏威儀」の巻もなかなか難しい巻。なぜ難しいかと言うと、我々の日常の考え方にはこういう思想がほとんどない。なぜないかと言うと、我々が今日頭に詰めんでいるところの思想というのは、小学校以来教わったところの西洋流のものの考え方。西洋流のものの考え方では、人間の行いがどういうものかと言う事についてあまり論議がない。少なくとも十九世紀までは、人間がものを考える事と、ものを感じるという事が中心になって西洋の思想は発達してきたわけであります。

二十世紀に入ってからは、ときどきこの「行い」というものを取り上げる思想が増えたわけでありますが、まだ、今日の状態では必ずしも十分な発達には至っていない。だから我々の常識的な考え方は、いずれも、人間の行いというものを問題にするよりは、人間は何を考えるかとか、何を感ずるかという事を基本にして、哲学は構築されているわけであります。

哲学などと言うと、非常に難しいと思うようでありますが、我々が日常生活において問題をどう考えたらいいかと言う様な事はぜんぶ哲学問題。だから哲学と言う学問を知っている、知っていないにかかわらず、人間がどう生きて行ったらいいかというようなことを考える場合には、それがすべて哲学的な問題である訳でありますが、その点では、今日までは人間の行いというものがあまり中心の議題になってこなかったという面があるわけであります。

ただ仕事一つを考えてみても、計画を立てるだけでは仕事にならない。非常に立派な計画が立っても、実際にやらなければ仕事にならない。それからまた「なる様になるだろう」という事で、ノンビリして何もしなくても仕事にはならない。立派な計画を立てて、それを一所懸命実行する時、初めて仕事と言うものは成り立ち得るわけであります。人間の生活でもそういうことで、「そのうちしっかりやりましょう」という事で昼寝をしていたんでは、なかなか人生というのは生ききれない。あるいは「働くのはバカだ、楽をしてりゃいいんだ」と言うようなことで、のんびりデレデレしていても人生は成り立たない。

そうすると、我々は毎日のように一所懸命体を動かして働かざるを得ないというのが、我々の日常生活。そういうものが我々の人生の中心だという考え方が仏教思想。そういう思想というのは西洋にはわりあい少ない。ただ今日以降、そういう思想を十分に持ち出して検討しないと、西洋思想が持っている矛盾というものが救済できないという事があるわけであります。だからその点では、この「行仏威儀」の巻というのは、仏教独特の理論であり「正法眼蔵」独特の理論でありますけれども、今日以降、我々が社会問題を考えていく上においては非常に大切な思想だと、そう言う事が言えようかと思う訳であります。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-