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正法眼蔵 行仏威儀 50

我々は仏道修行を一所懸命やっているのであるが、圜悟克勤禅師の様に、この天地が非常に激しい炎となって燃え盛っていると言う実感までは得られないかもしれないとしても、疑いもなく我々は大きな天空の下で日常生活を送っているのであるから、その天空の下で行われている我々の個々の生活と言うものは、はっきり自分たちの領分として持ち続けている。

そしてまた自分以外の人々、あるいは自分を包んでいる客観の世界も、ぞれぞれの実在と言うものをしっかりと持っている。この様な天地に覆われている我々の住んでいる世界は、まさに激しい炎である。我々が住んでいるこの世の中の現実に眼を見開いて、よく問題を見つめれば、どう生きて行ったらいいかがすぐわかるはずである。しかし、現に住んでいるこの具体的な場所を嫌って、他の世界の事を一所懸命頼りにしている状態は「一体どうしたんだ」と問いかけられても仕方のない状態である。

喜ぶべきではないか。このとるに足らぬ私(道元)は、釈尊が生まれた国インドから隔たる事遠く、現に生きている時代も釈尊の時代から遥かに離れているのであるけれども、圜悟克勤禅師が「我々の住んでいる宇宙は、燃え盛る炎の様に激しく変化し、激しく動いている世界だ」と言う教えを残された。その教えを幸いにして我々は聞く事が出来るのである。

一般に仏教が説かれる場合においても、釈尊のような真実を得られた方が宇宙の原則とは何かと言う教えを説く、と言う事はよく聞かれるところであるけれども、宇宙そのものが真実を語っているという教えは、長い時間にわたってなかなか聞く事が出来なかったと言うのが実情である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師のお言葉に「言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし」と言う言葉があったと思いますが、教えても教えられないんだから、とにかく「ただ坐れ」と言うのは問答無用と言うのと同じですか。

先生
そう言う事です。仏道とはどういう事を説いているかと言うと、この世の中とはいったい何かと言う事を、頭で考えて理解しようとしても分るものではないと。ところが大抵は分るはずだと思う訳です。だから本屋さんに本を買いに行って一所懸命読む訳です。それでわかったと思って自信を持って人にも説明する訳ですけれども、仏道ではそういう思想的な理解と言うのは、我々が生きていく上において非常に頼りなく、むしろ間違う事に役立つ恐れがあると言う考え方をする。そういう考え方から、体の調整・心の調整という事を非常に強く言う訳です。

だから、その事は道元禅師が「ただ坐れ」と言われた事と通じる訳です。仏教を勉強する場合に、坐禅をしないで仏教書を読んでも決して分るものでない。仏教書が読めなくても坐禅さえしていれば、体の感じで「ああ、仏道とはこういうもんか」と体に染み渡ってそれが脱けなくなる訳です。毎日坐禅をやってればそれが絶対脱けない。そういう形で生きていくと言う事が仏道修行という事。だから仏道修行と言うのは難しい様でやさしい。

ただ、朝晩、坐禅をやっていればいいというだけの事。「いや、朝晩、坐禅をやるのはとても大変だ」という事もあるから、そういう点では仏道修行というのは難しいという事もあるかもしれない。そのかわり大学者みたいに沢山、何千冊と本を読んでそれを考えにまとめてなんて事は全然いらない。とにかく朝晩、坐っていればいいと、それだけのもの。
     
道元禅師が只管打坐(ただ座れ)と言う事を言われたけれども、その事は、坐禅をしていれば仏道はすぐ分る、坐禅をしないで仏道が分ろうと思っても絶対分らんと、そう言う事を「只管打坐」と言う言葉で言われたという事になる訳です。「只管打坐」とはただ坐れ、ひたすら坐れという事。「打」と言うのは動作すると言う意味で、坐禅をすることを「打坐」と言う訳です。只ひたすら坐禅せよと言うのが道元禅師の基本的な教えです。

仏教の教え(釈尊の教え)は、この様に理解して間違いない。ただ坐禅していると、体全体とこの宇宙の原則とが一つになってしまって、道から外れようとしても外れなくなる。そういう形でしか仏道と言うものは実践できない。心がけをよくして「こうしちゃいけない、ああしちゃいけない」と何万遍考えたって、そんな事は人間に出来るはずはない。むしろ人間の体、人間の心と言うものを法の中に入れてしまうと間違いを起こせなくなる。そう言うのが仏道思想、仏教思想と言う事になると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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