トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行仏威儀 48

本文に入る前に西嶋先生が解説されます。

この「行仏威儀」というのはどういう巻かと言いますと、われわれ人間はものを考えるという能力がある、またものを感ずるという能力がある。ただ人間の在り方の中で一番大切なのは、何をやるかという事だ、というのがこの「行仏威儀」の巻において説かれているところの趣旨であります。人間が何をやるか、どんな形で行動するか、生きていくという問題に関連して、正しさの中で行われている場合に、その行動には非常に優れた威厳が伴うというのが「行仏威儀」の巻で述べられておるところであります。

本文に入ります。
圜悟克勤禅師はその言葉の中で、雪峰義存禅師は候白にたとえられ、玄沙師備禅師は候黒に譬えることができる(候白・候黒とは、中国の昔の物語に出て来る泥棒の名前。お互いに、どちらが上かと判断がつきかねるほど泥棒としての腕前が優れていた)と言っていることは、この両者が共に優れている点が現実にあって、その両者の主張が共に優れていると言う事は一向に差し支えがない。

お互いに問答の過程の中で、場面場面が変わるに応じて、様々の表現をし様々の主張をされる姿は神が現れ、鬼が現れる、あるいは神が姿を隠し、鬼が姿を隠すと同じ様に非常に変化に富んでいて、凡人ではなかなか予測できないほどの優れた働きである。

ここで玄沙師備禅師と同じような主張をする場合も当然考えられるし、また玄沙師備禅師とは立場を異にした主張もあってしかるべきである。玄沙師備禅師の言われた事だけが全てであって、雪峰義存禅師の主張がそれに劣る、あるいは玄沙師備禅師の主張と両立しないという事はない。しかしながら炎というものが、この世の真実というものと同じだと言う主張が正しいのか。あるいは、この世の真実というものは、赤々と燃えている炎のような具体的なものだと言う主張が正しいのか。

雪峰義存禅師の言葉がより優れているか、玄沙師備禅師の言葉がより優れているか、その辺のお二人の方々のやり取りというものは、玄沙師備禅師は神出鬼没と言う様な形で非常な変化を示しているけれども、雪峰義存禅師の言われたのは、候黒だとか候白だとかと言う様にいずれが優れているか判定しがたいほど接近していると言う境地にとどまってはいない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―


質問
道元禅師が、坐禅は仏道に入る「正門」であると言いますが・・・・。

先生
道元禅師ご自身の生涯の経験からすれば、坐禅がなかったら自分は仏道がわからなかったという事をはっきり意識しておられた。私自身もそうですよ。坐禅と言うものがあると知って、それを実際にやるという事がなかったら「正法眼蔵」と言う本は絶対読めなかった。坐禅があって、それを細々と長年やって来たから「正法眼蔵」の意味が取れる様になったという事。

だから私の場合でも坐禅がなかったら仏道はわからなかったし「正法眼蔵」はわからなかったという事は非常にハッキリしている。だから「正門」という事を単に理屈の上で、独善的に言われた訳ではなくて、どうも自分の長年の経験からすれば「坐禅がないと仏教はわからない」と言う実感を背景にして言われたと、そう言う事だと思います。

質問
お釈迦様も坐禅によって、その門からお入りになったわけですか。

先生
そう言う事です。ですから釈尊と言えども坐禅と言うものがなかったら、仏道はわかるはずがなかったという事はハッキリ言える訳です。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


          
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-