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正法眼蔵 行仏威儀 46

(妙法蓮華経見宝塔品)において釈尊が言われた。「すなわち法華経を説くならば、その説くということが私自身と会うことに他ならない。しかしたった一人のためだけに、教えを説くということは難しいことである」と。

この様な経典の言葉から考えていくならば、釈尊の教えを説くという事は、釈尊ご自身にお目にかかる事である。なぜならば釈尊の教えを説くという事は釈尊ご自身が「私自身と会うことに他ならない」と言われているのであるから。

また釈尊が言われた。「自分が死んで以後にこの法を聞く場合には、その意味がどういうことかということを聞こうとしても、なかなか難しいことではある」と。

銘記せよ。ものを説く場合にも、ものを聞く場合にも、決して容易なことではないという事があるのであり、説く方が優れていて、聞く方が劣っているという事ではない。「大地に立って釈尊の教えを聞く」という事が、この上なく尊い真実を得られた方々についてもあり得るのだという事を考えてみるべきである。玄沙師備禅師が「大地に立って釈尊の教えを聞く」と言われたけれども、その説法を聞く人々は三世諸仏であるから、ここに言われている真実を得られた方々とは、仏道修行のすでの成果に到達した人々を言うのである。

説法を聞いているから、まだ修行の途中だと言う理解の仕方をしてはならない。まだ仏道の最終の成果に到達せずに、これから教えを聞いて仏道の最終の成果に到達する過程として説法を聞いているというわけではない。教えを聞く側にとっても、教えを聞いて真実と一体になるという事ではなくて、教えを聞くこと自体が真実と一体になった姿である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
何で壁に向かって坐禅をやるのですか・・・。
  
先生
なぜ壁に向かうかと言うと、それが最も刺激の少ない方法ですよ。お互いに人が向き合って坐禅をするやり方もあるんですが、それはやっぱり相手が気になると思う。「相手はどう考えているのかなあ」という事でやっぱりお互い気になる。だから壁に向かっているのが一番刺激の少ないやり方。それだけの意味だと思います。

質問
川の流れをジーッと見ながら坐禅をすれば、刹那消滅なんていうのは実感的にわかるんじゃないかと思うんですけれども・・・。
   
先生
だから動くものなんかよりは、動かないものの方がいいわけです。坐禅はものを考える事から遠ざかると同時に、刺激から遠ざかると言う事でもあるわけです。我々の生活は普段から、ものを考える事と刺激に満ち溢れておるわけです。色彩であれ、匂いであれ、形であれ、実に刺激に満ち満ちておるわけです。だから、たまにはそういうものから切り離された時間があった方がいい、と言うのが坐禅のねらい。

そういう刺激のない状態にわが身を置いておると、刺激と言うものの意味が逆にはっきりわかるわけです。年がら年中刺激に追いまくられておれば、何が何だかよく分からんわけです。だから、ものを考える事から遠ざかる、刺激から遠ざかると言う事が、文明が進んで忙しくなれば忙しくなるほど必要になってくる訳です。文明と言うのは、刺激あるいは思想が積み重なると言う事でもある訳ですよね。

だけれども、それが過度になると少し整理がいるわけです。そういう整理もしておかないと、次の知識が頭に入らないと言う事でもある。整理をしないでまたその上へ積んで、どうしても入らない所へ、またその上へ押し込むという事をやっておれば、どっかでおかしくなるわけです。だからそういう点では、考えを整理する、刺激を整理する、という意味が坐禅にはあると思います。          
                             つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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