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正法眼蔵 行仏威儀 45

玄沙師備禅師の言葉には、雪峰義存禅師の言葉と関連させて、この様に批判する余地があるけれども、しかしさすが仏道を勉強した人としての力量は、玄沙師備禅師の言葉の中にも十分に汲み取れる。

仏教経典の中では、経典や議論を中心とした師匠たちが、大乗・小乗と言う仏教の区別に従って局限された範囲で、本質を論議したり外見を論議したりするけれども、そういう狭い範囲の論議を乗り越えて、釈尊以来代々の祖師方によって継承されて来たところの物事の本質、あるいはその本質に伴う外見というものを玄沙師備禅師の言葉の中に学ぶべきである。

それは何かというと、玄沙師備禅師が「三世諸仏(過去・現在・未来の時間において真実を得られた方々)が釈尊の教えを聴いている」という事を言われている点である。この言葉は仏教を大乗とか小乗とかに区分けて、大乗が価値あるとか小乗が価値がないと言う形で、本質を論じ外見を論じている立場と違う。

普通、大乗、小乗などの議論する立場からは、仏(真実を得られた方々)は、様々の環境に即して法を説く、教えを説くという事だけは理解しているけれども、仏(真実を得られた方々)自身が教えを聞く事があると言う事を知らない。仏(真実を得られた方々)がさらに修行をするという事を承知していない。仏(真実を得られた方々)がさらに真実を得るという事を承知していない。

しかし、ここでの玄沙師備禅師の言葉では、三世諸仏が地面に立って説法を聞くと言われている。この様な表現から三世諸仏が釈尊の教えを聞いていると言う実体そのものが説かれている。仏教の立場から言うならば、説法をする人が優れており、説法を聞く側の人が劣っていると言ってはならない。

※西嶋先生解説
これはこの場におられる皆さん自身の問題。説く方だけが偉いんではない、聞く方も偉いんだと、こういう見方です。まさにその通り。聞く方が偉くなければ聞きに来ない(笑)。だから聞きに来たという事は、非常に優れた人間に現になっているという事。教えを聴いて偉くなるんじゃなくて、やることによって偉さが決まる。だからそういう点では、説く方だけが偉くて、聞く方は劣っているという風に言ってはならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たいていの講師の方が、小我を捨てて大我につきなさい、自我を捨てなさい、真我を磨きなさいと言う事を、お説教の常套みたいに使われていますが・・・。
    
先生
昔から、そういう説明の仕方もありますけれどもね。ただ坐禅をやった上で「法」とは何かというふうな実際の体験と言うものから割り出していきますと、「大我」と言うものがどっかにあって、「小我」というものとどっかで落ち合うというふうな体験はないですね。どうにもしょうがないこのでくの坊が、坐禅をしているおかげでそう道を外さないと言うだけのものです。だから坐禅をしなければ、何をするかわからないですよ。私自身がそうだ。

毎日坐禅をやっているから、多少軌道を外れないだけのものでね。坐禅をやらないで街で飲み歩いておれば、金がなくなればみみっちい事だってするだろうしね。人間と言うのはそういうもんです。だから大我があって、それと一体になって無我になったら、ましになるなんてそんな事はありえないと思う。無我なんて事はありえないと思う。このわけのわからんものが、坐禅をやっているから、まあ何となくそうおかしな事をやらないと言うに過ぎない様な気がする。

道元禅師が「只管打坐」ただ坐禅をする、と言ったのはそういう意味だと思います。人間と言うのはそう頼りになるものではないですよ。坐禅をやっているから、やっと線路をそう外れないだけの事です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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