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正法眼蔵 行仏威儀 41

今度は玄沙師備禅師の言葉についてさらに道元禅師が注釈されます。

「炎そのものが、過去・現在・未来あらゆる時代の真実を得られた方々に、釈尊の教えを説くのであり、過去・現在・未来あらゆる時代の真実を得られた方々は、その教えを地面に立ったまま聴講しているのである」という玄沙師備禅師の言葉を聞いて、雪峰義存禅師の言葉よりも、真実を説くと言う点では優れていると言う向きがあるけれども、必ずしもそうは言い切れない。

はっきり知っていなければならないことは、雪峰義存禅師の言葉と、玄沙師備禅師の言葉とは言っている問題が違う。同じ問題を言っているのではなくて、別の問題を言っているのだから、その両者を比較してどちらが優れていると言う理解の仕方は必ずしも当たっていない。

雪峰義存禅師の言葉は、三世諸仏(永遠の時間の中で真実と一体になっている方々)が釈尊の偉大な教えを説いている場所がどこでどう言う場面において説いているか、と言っているのであり、玄沙師備禅師はそれに対して、三世諸仏が釈尊の教えを聴くくという事が一体どういう内容のものかという事を言っているのである。

雪峰義存禅師の言葉は確かに法を転ずると言う事、釈尊の教えを聞くと言う事に関連した言葉であるけれども、釈尊の教えを聴くとか、釈尊の教えを聴かないとかと言う事を問題にしているのではなくて、釈尊の教えがどういう場所で説かれているかという、その説かれている場所の事を言っておられるのである。

雪峰義存禅師の言葉の中では、釈尊の教えを説く場合には、必ずその教えを聴く事実もあるとはいっておられない。三世諸仏(過去・現在・未来の時間の中において真実を得られた方々)が、炎のために釈尊の教えを説いているとは言われていない。三世諸仏が、三世諸仏のために釈尊の偉大な教えを説いているとは言われていない。炎が炎自身のために釈尊の教えを説いているという表現もされていない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道はどんなに悲観している時でも、自分をそんなに惨めにしない。どんな有頂天で幸せな時でも、それにあまり溺れないという非常にさめた考えなんですか。いいな-と思う反面、なんか虚無的というと語弊があると思うんですが・・・。そう言うものとも、またちょっと違うんですか。

先生
仏道と言うのは、やっぱりさめた人の教えですよ。「ブッタ」と言う言葉の意味は覚めた人と言う意味もある訳です。だから、空とか無とかということもそういう事と関係しているわけですよ。感情的に大いにハッスルして、泣いたり喚いたりも人生かも知れないけれども、仏道ではそういう生き方よりも、泣いたり喚いたりを一応別の角度から眺めて、そう悲しむ必要もないし、そう喜ぶ必要もないと。客観的に、あるいは現実的に見ていく、現実そのものを見ていく。だから、感情を交えずに現実を見ていくと言うのが釈尊の教えですよ。

そういう点では、味もそっけもないじゃないか、面白くないじゃないか、もうちょっと人間らしく泣いたり喚いたりやりたいと言う考え方もあるけれども、釈尊はそういうことをやると苦しくてしょうがないよと言われた。そういう苦しみから逃れるためには、主観的な感情を離れなくてはならないと。主観的な感情を離れて、現実がいかにあるかという事をよく見つめる事が必要だと。だから仏道は確かに面白みはない。

やっぱり嬉しい時は大いに喜んで、酒を飲んで大いに歌でも歌う。それが人生だと言う考え方もあるけどね。それをやると苦しみから脱け出せないぞ、悲しみから脱け出せないぞ、と言われたと見ていいと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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