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正法眼蔵 行仏威儀 40

雪峰義存禅師が言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。

本当の意味で釈尊の教えを説くという事は、理屈や言葉の上だけで釈尊の教えを説くだけではなしに、自分自身の体を動かして与えられた場面において、自分の体を投げ出して行動すると言う事情もあるであろう。よく事態を観察して、その現実の場面においてどう行動していったらいいかと言う事を考える場面もあるであろう。

この宇宙を支配している基準を動かし展開させていくという場面もあるであろう。宇宙そのものが自分の力で動いていくという事もあるであろう。我々自身が努力して客観世界を動かしていく場面もあるであろう。客観世界が自分の力で動き発展していく事もあるであろう。

すでに炎を様々な姿で出現させているという事が、釈尊の教えそのものであると言う捉え方もあろう。真実を得られた方々を動かし活動させていると言う教えの説き方もあるであろう。釈尊の教えを現実に説いているという法の説き方もあろう。過去・現在・未来にわたる永遠と言うものを動かしているという法の説き方もあるであろう。炎は真実を得られた方々が釈尊の偉大な教えを説く場合の、偉大な道場であると言える。

この様な炎によって象徴される様な変転極まりない、しかもきわめて微妙な世界と言うものを考えていく場合には、限界を持った考え方ではとても考え尽くす事が出来ない。時間的な制限を持った考え方でも考え尽くす事が出来ない。人間の考え方だけで想像しようとしても考え尽くす事が出来ない。凡人と聖人と言う相対的な基準をもとにして考えてみてもわかりはしない。こういう考え方では、なかなか読み切れない世界であればこそ、雪峰義存禅師は「永遠の時間の中で真実を得られた方々は、炎の様に燃え上がりながら釈尊の教えを説いている」といわれた。

ここですでに、過去・現在・未来と言うあらゆる時間を通じての真実を得られた方々と言っているのであるから、頭の中で考えられた場面を乗り越えた世界の問題である。過去・現在・未来と言う永遠の時間の中で真実を得られた方々が、釈尊の教えを説く道場こそこの我々の住んでいる世界であるから、その世界はまさに炎と譬える事も出来る。現実に炎に譬える事の出来る様々の微妙な実体が、現にあればこそこの我々の住んでいる世界は諸仏の道場と言われているのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
時間というものは生命そのものと考えていいんでしょうか。

先生
と言うよりも、仏教というのは行いを非常に大切にする考え方で、行いが実際に行われている時が時間なんですよ。だから普通、常識的に考えると、時間と言うものは非常に長い横に連なった線の様に考えられますけれども、実際に我々が生きている「いま」と言うものを時間として捉えたと言うふうな特徴があると思いますね。

質問
行動を起こす場合に、分別とか判断と言うものが伴うんでございましょうか。

先生
行動を起こす前までは、分別と言うものがあるわけです。ただ行動を起こした時には、分別があると行動できないと言う関係にある訳です。その事は、朝、寝床の中で寝ている事を考えればいいわけです。「起きなきゃいけない、起きなきゃいけない」と百万遍考えても起きる事とは別です。「起きなきゃいけない、起きなきゃいけない」と考えているうちは起きられない。「よ-し!」と思って足を動かし、手を動かし寝床から立ち上がった時に「起きた」と言う事がある。

その起きるという事は「起きなきゃいけない」と言う考え方が止まらないと、行動に移れないという問題がある訳です。仏教哲学が非常に貴重な内容を持っている一つの理由はこう言う事なんです。普通はものを考える事と何か実行する事と同じ事だと思っている、そう違わない事だと思っているわけです。我々の日常生活を考えて見れば、考えているうちは行動がとれない。また考えながら行動すると、決していい行動にならないと言う事がある。

質問
その分別を止めるのは、インスピレ-ションですか。

先生
止めると言うよりも、行動を起こせば分別が止まっちゃう。

質問
その行動を起こさせるものは、何なんでしょうか。

先生
それは行動そのものですよ。手を動かす、足を動かすという事でしかない。「坐禅をしなきゃならん、坐禅をしなきゃならん」と思っているうちは坐禅は出来ない。そんな事を忘れて、足を組み、手を組んで、背骨を伸ばせば坐禅をやろうと思わなくても坐禅をやっている訳だ。行動と言うのはそういうもんですよ。そういう行動と言うものを発見されたのが、仏教哲学の釈尊の思想の一つの非常に大きな内容と言う事になるわけです。

質問
要するに坐禅をしていれば、起きなきゃならん時には自然に起きるって訳ですね。

先生
そう言う事です。ですから足を組み、手を組み、背骨を伸ばしていると言うのは一種の行動ですよ。だからそう言う行動の中に我が身を置いておるという事は自分の管理が出来る様になる。自分が自由自在に行動が出来る様になる力をつけていると言う事に他ならないわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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