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正法眼蔵 行仏威儀 38

雪峰義存禅師、玄沙師備禅師、圜悟克勤禅師が言われた言葉について道元禅師が注釈されます。

いまここで三世諸仏(過去・現在・未来における真実を得られた方々)と言う言葉を使っているけれども、その言葉の意味は、この世に存在する、ありとあらゆる真実を得られた方々の意味である。そして行仏(行いを通して真実と一体になった人)とは、三世諸仏に他ならない。この世の中のあらゆる方角に真実を得られた方々がたくさんおられる。それらの方々はいずれも過去・現在・未来と言うすべての時間に通じた永遠の中におられるのである。

我々の人生に関連して、永遠との関係を説く事はこの様に究め尽くすのである。これが釈尊の説かれた教えである。つまり仏道とは、ほんの僅かな時代において通用する考え方ではない。何万年たとうと、何億年たとうと、どんな時代がきても通用する教えを仏道は説いている。前々から、行仏(行いを通して真実と一体になった人)を探求しているわけであるけれども、それは結論的に言うならば三世諸仏である。永遠と言う時間において生きている人々である。

栄西禅師が「仏があるかないか私は知らない」と言われたけれども、仮に仏があるならば、その仏とは永遠と言う時間の中で行いを通して、真実と一つになっている仏があると言う事に他ならない。三世諸仏と言う場合には、必ず行いを通して真実と一体になった仏というのがその実体であって、ここで名前を挙げられている雪峰義存禅師と玄沙師備禅師と圜悟克勤禅師の三人の方々は、同じように永遠の時間の中のおける真実と一体になった方というものを説明されたわけであるけれども、それぞれこのような表現をされた。


              
              ―西嶋先生の話―

坐禅をする事はどういう事なのかと考えてみますと「人間になる」と言う問題がある訳であります。そういう話を聞くと、そんな馬鹿な話はないじゃないか、我々はみんな人間だ、人間が人間になるなんておかしな話だと言う考え方がでるわけであります。しかし人間がいつも人間でいられるかと言うと、事実はそうではないという問題がある。では人間が何になるのだと言う事になりますと、一つの場合は神様に近くなる、もう一つの場合は動物に近くなる。

だから人間は、いつも人間として生きていると言う事ではなしに、神様に近づいた状態になったり、動物に近づいた状態になったりして生きていると言う事情がある訳であります。なぜそう言う事をいうかと言うと、これも「自律神経のバランス」と関係しておりまして、自律神経の交感神経が強い場合には、人間は神様に近くなる。それから副交感神経が強い場合には人間は動物に近くなる。そして交感神経と副交感神経がバランスしている場合には、人間は人間になる。

釈尊が説かれた教えは、人間は神様に近づいてもいけない。人間は動物に近づいてもいけない。本当の人間として生きるべきだと、こういう教えを残されたと言う事になります。こういう問題は二十世紀以前にはわからなかった。ところが西洋の学問が発達して、心理学、生理学の新しい発見から、人間には自律神経があって交感神経と副交感神経の二つに分かれていて、交感神経と副交感神経の強さがどちらに傾いているかと言う事で三種類の状態が生まれてくると言う事がわかった。

そういう理論がハッキリしてきた時に、釈尊が説かれた「中道」とはどういう事かと言う事もハッキリしてきた。それは神様に近づいてはいけない、動物に近づいてはいけないと言う教えを残されたと言う事になるわけであります。ですから二十世紀の学問の結果、仏教の教えが何であるかと言う事が非常にハッキリし始めた。その事は仏教の説明が非常にやり易くなったと言う事を意味するわけであります。

我々が坐禅をしている時に何をやっているかと言えば、自律神経をバランスさせて人間の状態を味わっている。人間の状態を味わう事によって、我々がどんな生き方をしたらいいかと言う事が直観的に体の状態の中に具体化する。それが坐禅と言うものであり、人間の生き方の基本になると言う問題があるわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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