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正法眼蔵 行仏威儀 37

雪峰義存禅師がたくさんの人々に説示して言われた。「三世諸仏(過去・現在・未来、あらゆる時代を通じての真実を得られた方々)が、火のように燃えた姿で釈尊の教えを説いておられる」と。

これを拝聴していた玄沙師備禅師が言われた。「自分の見方からするならば、炎そのものがその姿を通して三世諸仏のために釈尊の教えがどういうものであるかということを説くのであり、三世諸仏はその教えを地面に立って聴講している」と。

この二人の問答に対して圜悟克勤禅師が言われた。「雪峰義存禅師の言われた事と玄沙師備禅師が言われた事とは、お互いにどちらが優れていると比較のできないほど素晴らしい形で釈尊の教えを表現している。お互いに機に投じて、お互いの意見をやりとりし、神や鬼のようにその変転する姿はなかなか常人では想像もつかない。その点では激しい炎が天地一杯にみなぎったような形で宇宙秩序(釈尊の教え)を説き、またこの天地のすべてが燃さかる炎となって宇宙秩序(釈尊の教え)が一体どういうものかを説いている。

そしてその説法により、人間を煩わすところのたくさんの障害というものが、風が吹かない前に断ち切られてしまっている。別の表現をするならば、維摩居士(優れた在家の人)の力量さえも見抜いてしまう程の優れた言葉を雪峰義存禅師も言われたし玄沙師備禅師も言われた」と批評された。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
会社勤めだと利益追求が第一番になりますから、損したって得したって同じじゃないかと言いきれないんであって「損はしちゃいけない、得をしなきゃ、負けちゃいけない、勝たなきゃいけない」って、どうしてもそういう事になりますから、「正法眼蔵」一本に突っ込んじゃうと利益の追求の仕方がホドホドになってしまって、利益の徹底追及という事になりませんですよね。そしたら、しばらく仏道を忘れて利益追求をして、利益追求がいいようになったらまた仏道に戻ればいいんですか。「正法眼蔵」は、これが仏道の本旨かもわかりませんけども分かるまでにはなかなか大変だと思います。

先生
その点ではね、この世の中を生きていく上においては、仏道以外のものはないという事も言えると思います。仏道というのは宇宙の原理なわけですよ。社会の様々の出来事というものを観察していきますと、例えばお金を集めて一度総理大臣になったという事実はあったとしても、何年か経つと簡単にひっくり返るんですよ。仮にお金を集めて総理大臣になってその政権が百年も二百年も続けば、これはやっぱりお金の方が大事だという事にならざるを得ない。

いかに無理してお金を集めて総理大臣になってみても、数年と経たないうちにひっくり返ってしまって、今度は裁判所の門を出たり入ったりしなきゃならないという事になると、お金を集めて一所懸命に努力した事がいったいどんな効果があったんだという事になるわけです。そうすると、経済界の問題でも政治の問題でも、それ以外の社会問題にしても、結局は宇宙の原則で動いているという事が言えると思います。で、そのことに気がつくか気がつかないかが人生の意味が分かるか分からないかの境目だと、こういう事になると思います。

だから「西嶋の言っていることはずいぶんのんきな事を言っている、そんなにのんきな世界に我々は生きていない」と、こういう感じもおそらく持たれると思いますけれども、我々自身が太陽の照る世界で生きているんですよ。明日の朝、太陽が出て来ないとなったら、円が百円になった二百円になったというような問題よりもはるかに大事な問題です。円が百円になろうと、二百円になろうと太陽が明日出てくるであろうという想像は確信できるわけです。

まあそれも確信できないはずだと言えば、それまでですけどね。明日の朝太陽が出てくるだろうと言う事はおおよそ確信が持てる。その点では、円がいくらになるなんて事はそうたいした問題じゃないです。むしろ太陽が出てくる原則に従って生きているという事の方が、はるかに人間の生き方としては本質的なものを持っているわけです。だからそういう点では、会社勤めをしていようと会社勤めをしていまいと立場は同じです。

結局太陽の下で生きているんですよ。結局地球の上でグルグル廻りながら生きているんですよ、それ以外に我々の生きてる場所はない。そういう点では現実的に具体的に我々の人生を考えていくならば、娑婆の世界も娑婆の外の世界もないんです。ただ宇宙の中に生きているというのが事実であって、宇宙の原則とは何かという事を一所懸命に勉強して宇宙の原則に従って生きていけばそれがもうすべてです。

ところが。人間はそういう生き方をすると損をしそうだと思うわけです。ほんとに損をするかどうかわからないんだけども、どうもそういう生き方では目先損をしてしまいそうだという事になると、目先損をさせられちゃたまらないから、「まあ、仏道修行はやめておきましょう」となるわけだけれども、本当に目先損をするかどうかという事は実際にやってみなけりゃわからん。

そこで仏道では「百尺竿頭進一歩」という。百尺の竿の上に立って、一歩でも踏み出せばどうなるかわからん、それでも踏み出さなければならないのが人生ですよ。どんな人にとっても、そういうきわどい現在の瞬間の上に置かれているわけだけれども、そういう人生をどう生きていくかという事に問題があるわけです。それは逃げようとしても逃げられない。逃げようとして逃げたつもりでいても、それは自分の本来を見失っているだけのことです。

自分をどう生かしていくかという様な立場で行動するならば、与えられた現在の瞬間で堂々と生きなけりゃならんわけです。そういう場面に我々は常に立たされているという事があると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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