トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行仏威儀 36

人間には、ものを取り込む働きと、それを手放す働きとがある。その二つの要素がちょうどバランスしたところに、その二つのものを乗り越えたところの輝かしい姿というものがある。そういう輝かしさとは何かといえば、いま目の前に見えている坐禅堂であり、仏殿であり、庫裏であり、山門である。

そしてさらに、宇宙全体を見通すような眼力があり、この大地をすべて眼中におさめてしまう様な眼もある。何かをする時にその瞬間瞬間に現れる心もあり、そういう心の現れる直後の瞬間もある。我々が行動を通して瞬間瞬間に生きている世界というものは眼、耳、鼻、舌、身体、意識という感覚的に捉えられる一切のものが激しく燃えている世界である。栄西禅師のように「三世諸仏有ること知らず」と言う理解を頭に置きながら、しかも過去・現在・未来の仏をしっかりと頭にもっているという状態もあるし、猫や牛などごくありふれた動物が現に目の前にいる世界でもある。

行動で自分をしっかりと管理することができ、ものの見方においては一切のものが正しく見える目がしっかりと身についている時には、法((宇宙秩序)そのものが行いを通して真実と一体になっている人を具体的に、現実に説いているのであり、また法(宇宙秩序)が行いを通して真実と一体になっている人こそまさに人間としての真のあり方であると認めることに他ならない。



               ―西嶋先生の話―

栄西禅師の「有ることを知らず」というのは、道元禅師の伝記を書いた本に「建撕記」という本があって、これは建撕という和尚さんが書かれた。その「建撕記」の中に、道元禅師が比叡山で修行をしておられたけれども、比叡山における天台哲学というものに疑問を持って、その疑問を解決するために、建仁寺に栄西禅師を訪ねて疑問を解こうとしたという話があるわけです。

その時に道元禅師がどういう疑問を持っていたかというと、天台哲学では「本来本法性天然自性身」という事を言うわけです。これはどういうことかというと、われわれ人間というものは本来この宇宙の本質と同じ性質を持っており、我々の体というものも、自然に非常に優れた内容を具えておるという考え方で、これが比叡山で行われていた天台哲学の中心思想であり、また仏教の中心思想でもあるわけです。

ただ道元禅師はこの教えを聞いたときに疑問を持った。それはどういう疑問かというと、われわれ人間が本来そういう結構なものであるならば、なぜ修行をする必要があるかという疑問だった。で、比叡山にたくさんの僧侶がおられたから、その一人一人に「われわれは本来本法性天然自性身なのに、なぜ修行をしなきゃならんのでしょうか」という質問をして回った。ところが比叡山では誰一人としてその疑問に答えることのできる人がいなかったと伝えられている。

なぜそうかというと、比叡山では仏教の学問は盛んであったけれども、文字の上で仏教哲学を理解しておるという事、つまり日常生活の問題として仏教を考えていなかったから、道元禅師のように仏教というものを自分の日常生活の行いに関連して問題を解こうとする態度の質問が出てくると、それには答えることができなかったという実情があったわけであります。

そこで道元禅師は、先輩の僧侶の勧めに従って、当時、中国から帰ってこられた栄西禅師を京都の建仁寺に訪ねて、そこで栄西禅師に同じような質問をされたというふうに伝えられておる。そのときに栄西禅師がどういう返事をされたかというと、「三世諸仏有ること知らず、貍奴白牯って有ることを知る」過去・現在・未来に仏というものがあるというふうにしきりに言っておられるけれども、私はそんなものがあるというのは知らん。猫が目の前にいるとか、白い牛が目の前を歩いておるとかという事はわしにはわかると返事をされた。

道元禅師がその答えを聞いて、比叡山の仏教哲学ではよく訳の分からんことをいろいろと教えられたけれども、どうも納得がいかなかった。ところが栄西禅師の「三世諸仏有ること知らず、貍奴白牯って有ることを知る」と言われて、こういうものの考え方なら人生問題の解決に役に立つかもしれないという事を感じて、そのまま建仁寺に留まって坐禅の修行を始められたと伝えられている。
 

ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


                  
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

FC2カウンタ-