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正法眼蔵 行仏威儀 33

昔の僧侶が一隻眼を開明した境地から、単に目で見えるだけのものがこの世のすべてではないと言われた。それは目の前にある様々の問題というものだけがこの世のすべではないと言われたこととも通じている。釈尊がなされた様に実に和やかな表情でニッコリと笑われる場合もあるし、瞬きをされる場合もある。これらの行動と言うものが、行いを通じて真実と一体になっている人に具わる威風のある姿と言うものの一つの時点における現われである。

それは外界のものに重点を置いて、「あれが欲しい、あれが得たい」ということで、外界のものに引きずられていくだけの状態でもなければ、「あれが欲しい、あれが得たい」ということで外界のものを自分に引き寄せようとする態度でもない。客観的な環境から生まれるものであり、人間の努力や動作は無用であると割りきれるものではない。無限の過去から続いているところの本質であり、宇宙の実体であると言い切れるかどうかと言う事も中々難しい。宇宙の場所の一角に坐をしめると言う状態でもないし、無限の過去から現にあるとおりの姿でずっときているという捉え方もどうも当たっていないような気がする。

ありのままというものをそのまま認めるという事だけでもなくて、何が残るかと言えば、一所懸命日常生活をやる事によって、威儀行仏(堂々たる威風を具えた行いを中心にした仏)があるだけである。この様な態度で我々の人生を考えていくならば、法のために日常生活を送る事もあるし、釈尊の説かれた教えというものを目標にして日常生活を送るということもあるし、生身の体のために日常生活を送るということもある。我々のきわめて自然な心に一切を任せて生きていく事でもある。生きるとか死ぬとかという事を超越してしまった威風のある姿というものも、自分の本来の姿にすっかり任せてしまっているのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅は遊びの全てをもぎ取った中心という事なんですけれども、そうしますと、出家、いわゆる在家、出家というのは、どういうことかよくわからないんですけれども・・・。

先生
その点では、出家しても出家しなくても、そう大きな違いはないと言う事もいえますね。それはどういうことかと言うと、坐禅の楽しみと言うのは、やっぱり家庭生活に絡まれておったら出来ないわけです。だから、僧侶になろうと僧侶になるまいと、皆さんが自分の家で坐禅をしようと思ってやれば、家族からはちょっと変な目で見られますよ(笑)。これはどんな家庭でもそうですよ。「いやあ、うちのお父さんちょっと頭がおかしくなったんじゃないか」(笑)というふうに思われるから。

そうすると、何となく家族に対する気兼ねから、坐禅がしにくいと言う面も逆に出て来ることもありますけどね。家族の思惑に関係なく坐禅をすれば、もう出家の世界です。俗世間とは縁が切れてしまう。家族とも縁が切れてしまう、坐禅をやっている間はね。だからそういう点からすると、出家と言うものも、形の上だけのものではなしに、もっと実質的なものがある。

質問
そうしますと、素人考えですけれども、出家より在家出家の方がよろしいんじゃないでしょうか。日常生活の中に巻き込まれていろいろな・・・。

先生
道元禅師はその主張はされなかった。その点では、形の上の出家というものを非常に尊敬されたと同時に、仏教というものの実体を深く詰めて考えるならば、形の上だけの問題でないという捉え方もあるわけです。だからその両方が道元禅師の思想の中にはありますね。形の上の出家というものを尊重された面と、それから形というものじゃなくて中身なんだという主張された面と両方あります。

だから我々もそういう問題を考えていく上においては、両方の主張を捨てるわけにはいかんという問題があります。だから「形でないんだから、実質的に在家出家の方が意味があるんだ」という主張もできないし、そうかといって「形の上だけでやれば、もう中身はどうでもいいんだ」という事も言えないし。だからそういう点では仏教の主張というものは、どうしても二つの考え方が両方あって、どっちが百点でどっちが零点という考え方をしないところに、仏教思想の特徴があると思う。それが現実の問題を考えていく上においてはやはり必要な立場で、それが仏教思想というものの一つの非常な価値だと思います。

質問
多面性というか二面性を持っている・・・。

先生
そう、そう、そういう事ですね。だから一切のものが相対的な関係にあるという主張が仏教にはありますね。だから一面的に、こっちがいいんだ、こっちがダメというふうな捉え方をしない。しないところに真実があるという考え方がありますからね。普通の常識的な考え方からすると、どうも不徹底で、なまくらで、どうも感じがよくないという捉え方もあるわけだけれども、長年生きて、古ダヌキになってくると、世の中ってのはなるほどそういうもんだという事を感じざるを得ない面があるんですよね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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