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正法眼蔵 行仏威儀 32

生とか死とか、体とか心とか、与えるとか奪うとか、従うとか背くとか等は、同じ現実という門を出たり入ったりしていながら別々のものとしては決して出会わないという関係にあるものなのか、個別的な行動を瞬間瞬間にやっていくという過程で体を隠しているけれども、角が外に現れているというとらえ方が当たっているのであろうか。大きな立場で物事を考えて理解しているという事なのか、老練な思索をめぐらして初めて知り得るところなのか。

玄沙師備禅師が言ったように、しょせん理屈ではなしに、我々の日常生活とは「一粒の輝かしい真珠の珠」に譬えることができるのであろうか、釈尊が説かれた沢山の経典と我々の日常生活は一つのものと考えるべきなのであろうか。目の前にある一本の杖という具体的な事物の中に宇宙の一切が込められていると考えるべきなのであろうか。

我々がそれぞれが持っている顔や形の中にこの世の真実の一切が隠されているという事が言えるのであろうか、三十年後という将来に得られるという形のものなのか、あるいは現在の瞬間の中に永遠というものが蔵されているという関係なのであろうか、こと細かく検討してみる必要がある。この様に事態を細かく点検していくに当たっては、眼いっぱいで声を聞き、耳いっぱいに外界の事物を見る。

※西嶋先生解説
この表現は道元禅師がよくされる表現で、普通我々は眼でものを見るわけです。だから目でものを聞くという事は普通ではない。それからまた、耳でものを聞くんであって、耳でものを見るという事は普通はない。ところが道元禅師のお立場、仏教の立場、行動の立場、一所懸命に何かをやっておる立場からするならば、眼というもので音を聞くという事もあり得るし、耳でものを見るという事もあり得るという捉え方が出来るわけであります。

これはどういうことかというと、例えば西田幾太郎という人の西田哲学という哲学がある。私はあんまり勉強したことはないけれども、その哲学の中で「行為的直観」という言葉がある。人間が行いをしておる時に得られる直観という意味。我々の人生を考えてみても、人間の知恵というのはどういうときにつくかというと、本を読んでものを考えておる時に本当の知恵がつくかというと、どうもそうではないらしい。本を読んでいると、知識がたくさん頭に詰まるけれども、それでは日常生活の判断がせっせとできるようになるかというと、必ずしもそうはいかない。

そうすると日常生活における正しい判断というのは何から出てくるかというと、正しい行いをしている生活から正しい判断が出てくると言う、これが仏教の主張。だから釈尊がなぜ我々に坐禅をすることを勧められたかというと、そういう正しい判断の基礎というものは、経典を読んでも身につかない。自分の体をきちっとした状態においておる時に、正しい判断の基礎である智慧が生まれてくると言う考え方が基礎にあるわけです。

そうすると、我々の目というものが、ものを見るだけでなしに、音を聞く、音にならない音というものを目でとらえるという場合もあるであろうし、光とは関係のない姿、形というものを耳を通して捉えるという事もあるであろう、そういう思想が「目いっぱいで声を聞き、耳いっぱいに外界のものを見る」。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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