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正法眼蔵 行仏威儀 31

このような捉え方、理解というものも、やはり宇宙の一部ではあるけれども、そのような形で、具体的な現実に即して問題を理解していくいき方は自分自身の本当の世界というものを、行動によって実際に具体化していく世界であり、各人一人ひとりの一所懸命の営みというものが、今この場所において現れているという事に他ならない。

我々の日常生活はこの様な状態のものであるから、たくさんの古人が言われた言葉の中から、我々が従うべき原則を取り上げる事もあるし、古人の言われた言葉以外のところで本当のものをつかんでいくという場面もあり、何回も何回も古人の言葉を検討し、また古人の言葉以外のところに真実を見つけて、様々の探求をしていくのであるけれども、それをまた他の形容でするならば、しっかりとつかむという常識的な態度以上のつかみ方もあるし、手放すという段になれば、常識的な立場で手放した以上の手放し方というものもある。

この様な問題を考えていく努力と言うものは、生きるという事は何か、死ぬという事は何か、とは何か、とは何か、与えるとは何か。奪うとは何かという事を勉強していくことであり、また法則に従っていく、世間に従っていく、周囲に従っていく、自分自身に従っていく、世間に背いていく、自分自身に背いていくという事が一体どういうことを意味しているかという勉強の仕方でもある。



          ―西嶋先生の話―

私は講義の前によく政治の問題を取り上げる訳であります。なぜ政治の話をするかというと、釈尊の教えは、我々の生きているこの現実の世界がどんな世界かと言う事を説かれた教えでありますから、当然、現実の社会と関連していると言う問題があります。普通、宗教的な考え方では現実の世界は汚れた世界である、教えの世界はもっと清らかな世界である。だから汚れた世界は見向きもしないで、清らかな世界にあこがれる事が正しい教えだという考え方がありますが、釈尊はそう言う事は一言も言っておられない。

何が真実かと言えば、この世が真実だ、我々の現に生きている世界が真実だ、それを勉強しなさいと。釈尊は「法」というものをお説きになった。「法」と言うのは、我々が生きているこの現実の世界そのもの。それを勉強しなさい、それが真実だ、とこう言う事を言われた。ですから、政治の世界も非常に複雑な内容を含んでおりますが、沢山の人々が自分たちの考え方を実現しようとして争っている世界であります。

だから、非常に厳密な世界であると同時に、真実に無縁の世界ばかりではない。人類の文化が未発達の頃には、かなりでたらめな運営が人間社会で行われた訳でありますが、人間の文化が進んできますと、人間の社会の動きもそれなりにまともになってきた。今日では、かなりまともな方向で社会運営をするようになって来ているという事であります。そして、その頂点の争いが政治であります。だから、政治を眺めてどうなっているかという事を理解する事、この世の中がどんな動きをしているかと言う風な問題とが密接に関連している。

そういう意味で、釈尊の教えがどういう教えかと言う事を現実に示す材料として政治が役に立つところから、私は政治の話を仏教の話の中でする訳であります。道元禅師の教えを勉強し、龍樹尊者の教えを勉強した限りでは、釈尊の教えと言うものはどうしてもそういう現実を基準にした考え方であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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