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正法眼蔵 行仏威儀 30

行動というものを通して自分の境地を切り開いていくならば、その行いが次から次へと連鎖的に影響を与えて、生き死ということがどういうものか、体や心というものが一体どういう意味を持っているかと言う問題が、すぐにはっきりとわかってしまうものである。

真実を行うとか真実をはっきりさせるとかという問題は、個人が自分の意思だけで無理にやろうとしてもできるものではない。意識的に無理にやろうとする事は、頭が混乱している状態の中で幻影を認めるのと甚だ似ている。真実を行うとか真実をはっきりさせるとかという事は、意識を自分自身に振り向けて自分自身を照らして見る「坐禅」をやっているときの状況と少しも変わらない。

このように、意識を自分自身に振り向けて自分自身を照らして見ることによって、しっかりものがわかっている状態がさらにわかるようになっていくという事は、行動を通して真実を求めていく限り、どこにでも行きわたっているものであり、何をやるかという事に任せて生きていくことである。そのことは頭の中であれこれ考えて選択するのではなしに、坐禅というものに身を任せていくことである。そして、この行い(坐禅)に任せていくという言う基本的な考え方については、心と言うのを勉強してみる必要がある。

そして仏道においては、心というものをどう勉強していくかというならば、我々を取り巻いている一切のものが心に他ならないと言う捉え方をする事であり、我々の住んでいる三界(欲界・色界・無色界)の世界の全てが、心というものがあって、その裏側として三界があるという事を認識し理解していくいき方である。


    
              ―西嶋先生の話―

釈尊の教えと言うものは、坐禅をしている状態そのものが釈尊の教えだと言う事情がある。釈尊が坐禅の修行を残されたから、我々は実際に仏道が何であるかという事を経験する事が出来る。坐禅がどういうものだ、仏道がどういうものだとかと言う事は、言葉でいくら説明しようと思っても、とうてい説明不可能です。なぜかと言うと実体であって理論ではないから。だから、その理論を実際に体で味わうという事が仏道を勉強するという事実であって、もしそれがなければ、仏道と言うものは絶対に分からないという性格をもっている。

仏道の世界に坐禅の修行が残っているから、我々自身が仏道が何かと言う事を勉強する事が出来るのである。もし坐禅がなければ、今日でも仏道はどういう事なのか全然わからない。だから、仏道と言うものが分からずに迷いに迷っていて、人間の現在背負っている問題の解決もとうてい難しいという事情が続いていたであろうと言う印象を持つわけです。だから坐禅という修行の存在が、いかに有り難いかと言う事が事実としてあると言う事がいえると思います。



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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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