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正法眼蔵 行仏威儀 29

この様に悟ったとか迷ったとかと言ってみても、行仏(真実を実践していく人)の境地から考えるならば、その人の靴の中で足の指をコソコソと動かしている程度の、ごく些細な事でしかない。悟ったとか迷ったとかと言ってみても、一つの譬えをするならばおならをした時のプッと言う音でしかない。排泄した排泄物の臭いでしかない。そういうものは鼻の穴さえあれば臭いを嗅ぐことも出来るし、耳がありさえすれば聞く事が出来るのである。

また達磨大師と四人の弟子との間で、四人の弟子たちがそれぞれ達磨大師から真実を与えらたけれども、それと同じように実際に行動していく人々にとっては、達磨大師が弟子に真実を与えたと同じように、真実を得る場面もあり、そしてまた、自分が実践していく事によって、人から教えられるのでなく、自分の行動を通して真実と一体になっていくという場面もある。これらすべてに通じて言える事は、行為による把握は、自分以外の誰からも得られるものではないと言う事である。

そして生きることを了解し、死ぬことに通達するという偉大な真実が豁然として達成された場合でも、生死の問題については、古くから様々の言い伝えが行われている。「真実を得られた方は、生き死にを心に一任する、生き死にを自分の身体に一任する、生き死にという日常生活を真実に一任する、生き死にという自分の生活を生き死に一任する」と。

このような主張は、昔はあったけれども今はないとか、今はあるけれども昔はなかったとかという時間に拘束された問題ではなくて、行仏威儀(真実を行うことに伴う威風)というものは、やりさえすればとたんに出てくる。

※西嶋先生解説
これは坐禅というものを考えてみればいい。日常生活「おもしろくないなあ」と思って腐っておっても、ひょっと気持ちを入れ替えて、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッと坐れば「つまらんなあ、くだらんなあ」と思っていることがフッとどこかへ行ってしまう。だから人間の幸福、あるいは人間の不幸というものは、人間が何をするかによってすぐ変わるという事。



              ―西嶋先生の話―

私は若い頃から仏教と言う教えを勉強をしておりました。仏教の教えは、西洋のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教等と同じ様な宗教だと考えて、わりあい長い期間が経ったわけであります。仏教を本当の意味で勉強して見ますと、西洋のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教等と考え方が違うと言う事実があります。西洋のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教というのは、人間の働きに関連して心の働き、頭の働きが非常に大切だと言う考え方をする訳であります。そういう心とか魂とかと言うものの象徴として神というものを考えて、その神と言うものを非常に大切にすると言う事が基礎になるわけであります。
  
仏教では、この世の中で尊いのは心だけではない魂だけではない。心とか魂とかと言うものは、我々の生きている世界の物の世界と別にある訳ではない。本当の教えと言うものは、この世の中は心と物とが一つに重なった実体としてあるのであるから、それを基準にして人生を考えるべきだと言う主張をした。仏教以外の宗教では心とか魂というものを非常に大切に考えてる。そして物とか金とかを軽く見るわけであります。

そういう考え方での仏教の理解の仕方は、非常に少ないわけであります。道元禅師は鎌倉時代の方であります。その道元禅師は、仏教思想を徹底的に勉強された結果、心とか魂とかを大切にする考え方と、仏教の考え方とは違うという事にはっきり気がついた。その事を「正法眼蔵」の本、その他に残された。だから道元禅師のお書きになった「正法眼蔵」を読む事によって、仏教の本当の意味がわかってくるという事情があります。
 
我々は仏教を考える場合にも、西洋の宗教と同じ様な考え方であろうという考え方を持って勉強し始めます。だから、仏教の教えと仏教以外の宗教とが本質的に違うと言う事に気がつかない。そのために、本当の意味での仏教を勉強する機会が以外に少なくなってしまう。そういう問題があろうかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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