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正法眼蔵 行仏威儀 28

人間は正しい事を一所懸命やっているならば、人間を拘束する何ものもない世界に生きているのである。

兜率天(理想の世界)にすぐさま行く事もできるし、兜率天からすぐ脱け出す事も出来る。兜率天にしっかりと足を踏みしめて生きていると言う状態も可能である。とてつもなく安楽の世界(極楽)にもすぐに行く事ができるし、安楽の世界からすぐ戻ってくる事もできる。

※西嶋先生解説
この事は、単に言葉の上だけの問題ではない。我々の日常生活において「安楽の世界に行きたい」と思ったらすぐ行ける。一所懸命働けばいい、一所懸命生きるという事、グズグズとものを考える事なしに、やらなきゃならん事を一所懸命やっていると、すぐ安楽な世界(極楽)に行ける。そして、あんまりノンビリているというのも、そう楽しい事ではない。極楽に嫌気がさしたら帰ってくればいい。

本文に戻ります。
それは安楽の世界に現に今いると言う状態でもあるし、理想の世界を瞬間的に超越してしまう事でもあるし、安楽の世界も即座に超越してしまう事でもある。それはまた、安楽の世界だとか理想の世界だとかと言ってみても、そんなものは問題にしないで全部打ち壊してしまう様な境地でもある。その点では、理想の世界、安楽の世界を掴もうと思えば掴めるし、手放そうと思えば手放せるのが我々の生活そのものである。

我々は、安楽の世界も、理想の世界も全部呑み込んでしまう事が出来る。なぜ出来るかと言うならば、我々は行動するからである。行動の中には、そういう力が込められている。

銘記せよ。ここで安楽(極楽)の世界、兜率(理想)の世界と言っているけれども、それは一体どういうことかというと、極楽の世界として、浄土と言うものがあると考えられているし、理想の世界として、兜率天と言うものがあると信じられている。そのような浄土の世界、天上の世界というものが、グルグルと回っているのが我々の日常生活でもある。我々は一所懸命日常生活をやっているのであるから、極楽で一所懸命やっていようと、天上で一所懸命やっていようと、娑婆世界で一所懸命やっていようと本質的には変わりがない。

そして真実というものがはっきりわかっているならば、娑婆の世界にいようと、極楽の世界にいようと、一向に違いはない。迷っている状態であるならば、たとえ極楽に行こうと理想の世界に行こうと、迷っている状態からは脱け出せない。


 
              ―西嶋先生の話-―
                            --つづき

「正法眼蔵」がなぜこんなに難しいかと言うと、仏道の中身は一つしかないんだから、それを一所懸命説こうと思ったらこう言うふうに難しくなってしまったという事なんです。道元禅師が別に難しい事を言うのが好きであった訳ではない。仏道と言うものを言葉で表そうとすると、どうしてもこういう難しいものにしかならなかったという事に他ならないわけです。道元禅師の流れをくむ方でも、仏道の大衆化という事を考えて、色々と信徒を増やされた方は沢山おられる訳です。

我々が「正法眼蔵」を読めると言う事が、仏道とは何かと言う事がわかる今日唯一の手がかりです。そう言う点から見ると、道元禅師が沢山の信徒を集めるためにもう少しやさしい本を書かれるよりも、難しい本ではあるけれども、本当の事が書いてある本の方が仏道を勉強する上においては絶対の価値がある。この「正法眼蔵」がなければ、私自身は仏道と言うのは絶対にわからなかったと思う。仏道が曲がりなりにも分かる様な状況に立ち至ったと言うのは、まさにこの本があればこそです。

この本がなかったら、私は仏道と言うのは絶対にわからなかったと思う。多少勉強してみたところで、あっちに迷い、こっちに迷い、結局何が何だかよく分からんうちに「ハイさようなら」と言う時期が来ただろうと思う。その点では、この本の有り難さと言うものを、私は非常に強く感ずるわけです。そういう点からしても、仏道を説く場合に中身を変えると言う事は出来ない。仏道の中身と言うのは、動かしようのないたった一つの理論があるだけで、その理論以外に仏道と言うものは絶対にありえないという事、この事は非常にはっきりしていると思う。その事を分からせていただいたのが、この「正法眼蔵」だと言う事に他ならない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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