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正法眼蔵 行仏威儀 27

人間は正しい事を一所懸命やっているならば、人間を拘束する何ものもない世界に生きているのである。一所懸命やらなければならないことをやっている状態というものは、誰にも、何ものにも邪魔されない状態であって、本人自身が仏になって、その仏にだけ縛られて生きていくのであるから、そういう生き方をするという事は、日常生活において、泥をかぶり水に浸かって一所懸命生きていく境涯ではあるけれども、そういう境涯において十分に事情というものを理解した生き方であるから、何の拘束もないのである。

この様な考え方で人生を生きていくならば、人を教えて正しい方向に導く事が出来る。その様な行いをする事によって、この我々の住んでいる世界に花が咲く。我々の住んでいる世界に花が咲くという事が、またこの世界が現実に存在すると言う事の意味でもある。とにかく日常生活を一所懸命やっていく限り、この世の中は花盛りであるし、また花以外に世の中と言うものはないと言う見方もできる。

したがって主観とか客観とかというけじめをはるかに乗り越えている。自分と他人というふうな問題をはるかに乗り越えている。他人が悪いから自分がこんな苦労をすると言うふうな考え方も必要ないし、私が偉かったからみんなを助けてやったという事を感じる必要もないし、自分とか他人とかというものはすっかり乗り越えているし、どこへ行こうと、どこから戻ってこようと、独立独歩の行動がとれる。


 
           ―西嶋先生にある人が質問した―   

質問
先生を含めて仏道家にお伺いしたいのですが、恋愛なんかをどうもお粗末に扱っている様な気がするんですが・・・。ですから大衆は離れて行くんですよ、おそらく。

先生
仏道は沢山の人を集める事が目的かどうかと言うとこれは疑問なんです。仏道と言うのはかなり高度の思想だから、誰にもわかると言う思想ではないんです。誰もが好きになる思想でもない。これははなはだ残念な事だけれどもね。誰もが「わ-、素晴らしい」と言う感じで今は受け取られる思想ではない。

道元禅師が一箇半箇の人を養成すると言われたのは、仏道にはそういう性質があるという事を言っておられる訳です。道元禅師だって勿論、沢山の人に仏道を説きたいと言う気持ちは当然あっただろうけれども、沢山の人を集めるために教えを曲げると言う事は絶対にしないと言う確信はあったと思う。その事が「一箇半箇の真人を打出する」と言う言葉になって表れている。仏道を説く場合に、沢山の人に聞いてもらう事はもちろん必要だけれども、中身を曲げてまで人を集める事は絶対に必要ない。

だから私は人を集めるための言葉は一言も言わない。言葉の技術として人を喜ばせる事は必要はあるかもしれないけれども、中身を変えるという事は絶対にしない。また仏道というものは、中身の変わるべきものでもないと思っている。だから仏道と言う思想を、これは本当だと思って学びたいと言う人だけしか集ってこない。それ以外は集ってこない。集めようと思っても、集める事ができないと言うのが実情としてあると思います。
                        
                          つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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