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正法眼蔵 行仏威儀 25

行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)の生き方というものは、本来生まれつき悟りを持っているといことはどうでもいいと考える。本来悟りというものはないけれども、いま瞬間に現れたという考え方もどうでもいいと考える。悟りがあるとかないとか言ってみても、そんなことはもどうでもいいと考える。行仏が大切にするところはこのような考え方である。
 
いま凡夫(普通の人)が考えるには、想念と言うものがあるとかないとか、悟りというものがあるとかないとか、悟りが今初めて与えられたとか、ずっと昔から本来悟りを持っているものだとか、言葉の上で理屈の上であれが正しい、これが正しいと言っているが、その様な考え方は仏道にとってはどうでもいい事である。このような様々な言葉を使い様々な問題を考える事は、凡夫の考える事に他ならない。真実を得られた人々から、真実を得られた人々に対して次々に伝承されて来たところの教えではない。

凡夫(普通の人)が持っている想念と、諸仏(真実を得られた方々)が持っている想念は遙かに異なっている。この二つのものを同じだというふうに考えて、あれこれと比較すべきではない。凡夫が「本来われわれは悟りを持っている」と一所懸命考えたところと、坐禅をやっている人々が「なるほど、われわれは本来悟りと一体だ」と体験を通して実感する事との間には、天と地ほどの違いがある。比較してあれこれと論ずべきものではない。論じようとしても、とうていそんな事の出来るものではない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道は国家というような概念を認めているんでしょうか、それとも否定しているんでしょうか。

先生
いや、だからそこでね、認める、認めないは別にして、現に国家というものがあって、その中に我々が生きているという現実を無視することはできないわけですよ。で、そういう現実を離れた形での論議というものを仏教は嫌ったわけです。本当のいい結論は出てこない。そうすると、我々が現に国家の中に生きていて、国家の力に守られているという事実そのものを無視するわけにはいかないと、こういう事がそういう問題を考える場合の一つの出発点になるわけです。

そうするといろんな国が寄り集まって、いろんな動きをしているわけですけども、そういう国と国との間柄の問題でどういうふうな立場で、どう動くことが正しいのかという、きわめて具体的な問題にならざるを得ない、そういう問題があると思います。最近、街頭で大きな声で色々と言っているわけだけれども、私はああいう声を聞いていた場合に、あの人たちもご飯を食べなければならないという事をすぐに考えるわけですよ。

これは非常におかしな考え方かもしれないけれども、私はそういう考え方をすぐする。そうして、ああいう生産的でない仕事に携わって、声をからして叫んでいる人の生活の原資がどこから出てきているのか、そういう問題の方がはるかに大事だ。そういうものを無視して社会問題を考えることはできない。自分のお米を稼ぐことを誰かに任せておいて、しかも社会がこうあるべきだ、あああるべきだという論議が出来るのかどうか、そういう問題を私はすぐ感じる。非常に皮肉な見方かもしれないけれども。

そういう点ではきわめて具体的に一歩一歩、歩いていくのが我々の現実の世界ですよ、それが宇宙です。人間はご飯を食べて生きていくという事実を基礎にして問題を考えない限り、あるいは人間は衣類を着て生きていくんだという事実を考えない限り、本当の真剣な論議というものは出てこないんです。どっかから小遣いをもらって大きな声を張り上げているんでは、本当の意味の社会活動になりえているのかどうか疑問だという風なことを私は感じるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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