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正法眼蔵 行仏威儀 24

人間の量が短小ならば、考え方も短小である。人間の寿命が短促ならば、思慮も短促である。どうして行いを通して真実と一体になった人々に伴うところの威風ある姿というものを想像する事ができよう。

※西嶋先生解説
――このことはどういうことを言っているかというと、人間というものは価値があるのかないのかよくわからんけれども、やることが立派ならば絶対の価値があるという事を言っておられるわけです。人間の値打ちというのはなんで決まるか。やることによって決まる。だから先ほど四十五分間、われわれが姿勢を正して坐っていたことには絶対の価値があるというのが仏道の信仰。

そういう点では、あれこれと理屈をこねてどうしなきゃならん、こうしなきゃならんというようなことは必要がない。足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っておれば、人間の最高のものが出てくるという事。この価値というものは人間の頭では到底想像することができないという事を言っておられるわけであります。――

この様な理由から単に人間だけを取り上げて、釈尊の説かれた教えというものを問題にして、人間社会に通用するしきたりだけを取り上げて、釈尊の説かれた教えを一部分に局限して考える人々は、釈尊の弟子として許可することはできない。これらの人々は過去の行いの結果として、現に人間として、あるいは生物として生きているだけの存在でしかない。体を通して、心を通して教えを聞くと言う経験をした事のない人であり、まだ行動を通して真実と一体になった体や心を持った人ということができない。

※西嶋先生解説
――坐禅をしている時に何をしているかというと、体を通して、心を通して教えを聞いているわけ。別に何も聞こえてこない。それはごもっともな話。耳に音が聞こえて来て教えが伝わってくるわけではないけれども、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っているときに、釈尊の教えの一切が聞こえるというのが坐禅の意味であります。――

このように単に人間の考え方だけで、仏道を考えていく人々は、この宇宙の秩序に従って生きているという事にはならない。この宇宙の秩序に従って消滅していくという事にはならない。宇宙の秩序に従って物事を見ているという事にはならない。宇宙の秩序に従って物事を聞いているという事にはならない。日常生活において、歩いたり、立ち止まったり、坐ったり、寝たりという行動が、いずれもこの宇宙の秩序に従って行われているという事にならない。

これらの人々は、法(宇宙秩序)に従って日常生活を送っていない。したがって、この宇宙というものがいかに有難いものであるか、我々の日常生活がいかに幸福なものであるかということに気がつかないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先日、NHKの番組で臨死体験というのをやっていました。死ぬ間際に、川を渡ったとか、峠にでたとか、暗い中を一条の光明のようなトンネルを抜け出すとか、そういう体験をしている方がおられるんですね。私なんだか不思議な感覚で、自分たちは死んだらパッとなくなってしまうものなんでしょうか。こういう事をどう感じられますか。

先生
私はね、そういうものを自分で体験したことがないから(笑)。私は自分の体験したことしか話さない。そういう話を聞くと「あ、その人はそういう経験があったんだなあ」と思うけれども、それは誰にでもあり得るものだという風に拡大して考えることは、私にとっては難しいです。「ああ、そうですか」という事で、お話として聞いておくだけです。(笑)

質問
私は坐禅は「護身」だと思っています。ご老師(西嶋先生)の「授戒」の書と、お写真と床の間の文箱に入れておきまして何かあるときはほんとに力強いです。

先生
(笑いながら)それはありがとうございます。そういう点ではね、私自身も坐禅がなかったら、どういう状況になっているか、ぜんぜん自分で自信がありませんね。坐禅をやっているから、何となく世間並みの事がやれているだけの事で、私から坐禅をとったら、どんなバカげたことをして、どういう状況になるか、ぜんぜん自分で自信がないですね。

質問
私も本当に至りませんけれども、レ-ルを何とか外さないでいられるのは、坐禅のおかげだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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