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正法眼蔵 行仏威儀 19

仮に無生(生まれることがない)という言葉を聞いた場合でも、この言葉は一体どういう意味を持って持っているのかという事を勉強する必要がある。

「無生」と言う言葉を聞いて鵜呑みにし「ああそうか、無生」と言うような態度で、検討もしないでそのままに過ぎてしまってはならない。「無生」と言う言葉だけで満足してしまって「もうわかった、仏道は一切わかった」と言う人は、無仏(仏と言うものがあるかないか)・無道(真実と言うものがあるかないか)・無心(心と言うものがあるかないか)・無滅(消滅というものがあるかないか)等の問題について論議する必要がある。

また「無生」という言葉を大切にするけれども、その「無生」という実体さえないような世界を考えるべきではないかという疑問もあり得るし、宇宙というものが普通には実在と考えられているけれども、この宇宙そのものも実在としてあるのではなくて、仮の存在だと考える必要があるのかどうか。あるいはこの我々の住んでいる世界には、宇宙の実体というものが考えられるわけであるけれども、その宇宙の実体、本質さえ存在しないという考え方が正しいかどうか。

「無生」という事がある以上、「死ぬことがない」という理論が正しいのかどうかという事についても検討してみることもなく、「無生」と言う言葉だけを後生大事にして、それ以上の問題を検討しようとしない人々というものは、ちょうど水草の様に、何も考えることなしに、フワッと水面に浮かんでいる様な生き方をしているから、「無生」と言う言葉だけに満足して、それ以上の問題を考えようとしないのが実情である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「本音と建前」の話なんですけれども、昔はそういうことは少なかったんですか。

先生
これはね、戦前はなかったです。もちろんそういう考え方はあったけれども、「そういう考え方は恥ずかしい」という気持ちがあったんです。人間が本音と建て前を使い分けて生きなきゃならないような面もあるけれども、それは本来の形ではない。そうせざるを得ないけれども、それは恥ずかしいことだという気持ちがあったんです。しかし戦後は、その本音と建て前を使い分けることが当然の人間のあり方だという事で、真正面から本音と建前の違いを認めようとする考え方、あるいは認めるべきだという考え方が、私はどうも強すぎるんじゃないかという見方です。

そういう考え方をしていますと、社会に倫理道徳が成り立たないんです。もう一切がご都合主義で、腹で考えていることと、外側のやることが違っていて当たり前という事になりますと、人間社会そのものがとてつもなく暗く、とてつもなくおかしな状況になるんです。そんなことは仏道の世界では許されない。

質問
私なんかの場合は、本音と建前があるのが当たり前で、そうしないと生きていけないんじゃないかという風なのがあって、それ以外があり得るか、というぐらいの考えがいま正直言ってあるんですがね。

先生      
だからその点はね、戦後の特殊状況だと思います。そういう考え方が、当然として人々の頭に固定しているという事は。

質問
確かに仏道修行をしているというのは、これは私の生き方で、こう行きたいというのはあるけれども、じゃ社会生活の中で本来こうあらねばならないと言っても、中々そうはいかないから、会社なら会社とか、その他の場合では、そこの状況に応じてやるという風に、なるべく仏道に反するような行動はしないように考えてはいるけれども、周りの人は最初から建前というか、むしろ仏道の考え方みたいなのは建前だというわけですよね。私自身は本音と思っているわけですけれども。だからある意味では本音と建前が逆転しているかもしれない。私の場合は、世間の人から見れば逆転しているのが本音だと。

先生
仏道の立場では、現実をよく見ながら望ましい形を具体化していこうという事なんです。しかし本音と建て前とを使い分けますと、現実は現実として本音はほっておく、建前は建前で言葉として、あるいは頭の中の存在として、別においておくという考え方になります。現実そのものをあるべき姿に変えていくという努力が生まれてこない。そういう努力のないところに仏道修行はあり得ないという見方です。

あくまでも本音と建て前とを一つにしようという努力が仏道修行であって、その二つが別々であって構わないんだ、仕方がないんだという考え方では仏道修行はあり得ない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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