正法眼蔵 行仏威儀 18
すでに生命が生まれるという事については、四種類の区別があるということは聞き終わっている。
それでは、死ぬという事については一体どのくらいの種類があるであろうか。四種類の生まれる形があるのであるから、やはりそれに見合って四種類の死に方があると考えるべきであろうか。生まれる形は四種類あるけれども、死ぬときの形は三種類だと考えたらよいのか、あるいは二種類だと考えた方がよいのか。単にそういうわずかな数ではなしに、五種類、六種類、千種類の死に方というものがあるかどうか。この様な基本的な問題について、ほんのちょっとでも疑問を持つという事も仏道を勉強する上の一つの分野に他ならない。
しばらく考えてみるがよい。この胎生・卵生・湿生・化生の仲間の中で、生まれる事はあるけれども、死ぬ事はないと言う生物があるであろうか。初めから死ぬという事だけはあるけれども、生まれるという事が全くないと言う生物があるであろうか。生まれるということしかなくて、死ぬという事がない生物があるであろうか。死ぬという事だけがあって、生まれるという事がない生物があるであろうか。この様な問題について必ず勉強してみなければならない。
無生(生まれることがない)と言う単純な言葉だけに満足してしまって、一体それがどういう意味なのか、現実にどういう事なのかという勉強をすることなく、この生身の身心を使って真実とは何かという事を勉強してみる人が少ない。「無生」と言う言葉だけを頼りにして、実際の修行をしない事は非常に愚かな状態である。仏道修行には、信じる事だけを中心として真実を探求する人々、この世の中の実体や秩序を中心に真実を把握する人々、時間をかけずに瞬間的に真実を把握する人々、時間をかけて徐々に真実をつかむ人々など様々の行き方があるけれども、「無生」と言う言葉だけを頼りにする人々は、このような様々の行き方のどれをかを選んで仏道修行をしている人々にさえ及ばない愚かな人々である。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「無生」という言葉が出ているんですが、表面的な意味は分かるような感じがするんですけれども、もうちょっとピンとこないんですが・・・。
先生
例えば我々の人生問題を考えていく場合に、非常に苦しんでおる人がいたとする。その人に対して「本来は自分の生命なんて言うものはないんだ。我々人間そのものが水の上の泡粒のようにポカッと生まれて、いつの間にかまたポカッと消えていくような存在だから、そうクヨクヨしてもしょうがないんだ。まあ本来生まれていないものなんだから、お前の悩みなんかどうでもいいんだ」というふうに理屈の上で説かれても、その人の悩みがなくなるかどうか、生きる上での苦しみがなくなるかどうかという風なことを、ここでは問題にしておられる。
だから「無生」「無生」というようなことで、わかったような顔をして簡単にかたずけられる問題ではないという事をここでは言っておられる。こういう説き方っていうのは非常にあるんですよ。仏教を説く場合にね。「そういうつまらんことを問題にしておっちゃならん。もっと大きな問題を考えろ。この世の中は全部が「無」なんだからそんな悩みなんかどこにもあるはずがないんだ」という事を言っても、悩んでいる人は絶対に悩む。そんな理屈でいくら「悩むな、悩むな」と言われたって、自分に悲しみがあり、苦しみがあったら、これは中々脱けられるものでないですよ。
だからそういう問題もあるという事をここでは説いておられる。「無生」「無生」という事で全部問題のけりがついたように言う人もいるけれども、そんなことでは決して人生問題は解決がつかないし、仏道が分かったともいえないという事を言っておられる。
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それでは、死ぬという事については一体どのくらいの種類があるであろうか。四種類の生まれる形があるのであるから、やはりそれに見合って四種類の死に方があると考えるべきであろうか。生まれる形は四種類あるけれども、死ぬときの形は三種類だと考えたらよいのか、あるいは二種類だと考えた方がよいのか。単にそういうわずかな数ではなしに、五種類、六種類、千種類の死に方というものがあるかどうか。この様な基本的な問題について、ほんのちょっとでも疑問を持つという事も仏道を勉強する上の一つの分野に他ならない。
しばらく考えてみるがよい。この胎生・卵生・湿生・化生の仲間の中で、生まれる事はあるけれども、死ぬ事はないと言う生物があるであろうか。初めから死ぬという事だけはあるけれども、生まれるという事が全くないと言う生物があるであろうか。生まれるということしかなくて、死ぬという事がない生物があるであろうか。死ぬという事だけがあって、生まれるという事がない生物があるであろうか。この様な問題について必ず勉強してみなければならない。
無生(生まれることがない)と言う単純な言葉だけに満足してしまって、一体それがどういう意味なのか、現実にどういう事なのかという勉強をすることなく、この生身の身心を使って真実とは何かという事を勉強してみる人が少ない。「無生」と言う言葉だけを頼りにして、実際の修行をしない事は非常に愚かな状態である。仏道修行には、信じる事だけを中心として真実を探求する人々、この世の中の実体や秩序を中心に真実を把握する人々、時間をかけずに瞬間的に真実を把握する人々、時間をかけて徐々に真実をつかむ人々など様々の行き方があるけれども、「無生」と言う言葉だけを頼りにする人々は、このような様々の行き方のどれをかを選んで仏道修行をしている人々にさえ及ばない愚かな人々である。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「無生」という言葉が出ているんですが、表面的な意味は分かるような感じがするんですけれども、もうちょっとピンとこないんですが・・・。
先生
例えば我々の人生問題を考えていく場合に、非常に苦しんでおる人がいたとする。その人に対して「本来は自分の生命なんて言うものはないんだ。我々人間そのものが水の上の泡粒のようにポカッと生まれて、いつの間にかまたポカッと消えていくような存在だから、そうクヨクヨしてもしょうがないんだ。まあ本来生まれていないものなんだから、お前の悩みなんかどうでもいいんだ」というふうに理屈の上で説かれても、その人の悩みがなくなるかどうか、生きる上での苦しみがなくなるかどうかという風なことを、ここでは問題にしておられる。
だから「無生」「無生」というようなことで、わかったような顔をして簡単にかたずけられる問題ではないという事をここでは言っておられる。こういう説き方っていうのは非常にあるんですよ。仏教を説く場合にね。「そういうつまらんことを問題にしておっちゃならん。もっと大きな問題を考えろ。この世の中は全部が「無」なんだからそんな悩みなんかどこにもあるはずがないんだ」という事を言っても、悩んでいる人は絶対に悩む。そんな理屈でいくら「悩むな、悩むな」と言われたって、自分に悲しみがあり、苦しみがあったら、これは中々脱けられるものでないですよ。
だからそういう問題もあるという事をここでは説いておられる。「無生」「無生」という事で全部問題のけりがついたように言う人もいるけれども、そんなことでは決して人生問題は解決がつかないし、仏道が分かったともいえないという事を言っておられる。
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