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正法眼蔵 行仏威儀 16

過去における仏教界の諸先輩が様々の形で「全宇宙」と同じ様子を具えた威風のある姿、「全大地」と同じ内容を具えた威風のある姿を説いているけれども、それらをどう学ぶかという事で考えるならば、明々白々としていて疑う事の出来ない我々の日常生活そのもの、現実そのもの、行動そのものが宇宙全体とまったく同質のものだと学ぶべきである。

そして、この宇宙が何物も隠していないと言う事だけではなしに、ほんの小さな存在である我々が、ほんの狭い範囲の日常生活を一所懸命に送るという事が、実は「行仏威儀」というものの実体であり、それが宇宙とか大地とかと言うふうなものを、はるかに乗り越えた無限の大きさを具えているのである。

※西嶋先生解説      
――道元禅師はこの様に言われて、我々の日常生活における行動、あるいは坐禅と言う行動において、我々が示すところのもの、それが絶対の価値を持ち、無限の価値を持つと言う事を非常に強く言っておられるわけであります。それが、この「行仏威儀」という巻の主題でもあるわけであります。

こういう思想というのは、西洋思想では非常に少ない思想。西洋思想というのは大体行動という事をあまり尊重しない思想。頭がいいという事、あるいは感覚がいいという事は尊重されるわけだけれども、今日まで行動をどう評価するかという事については、わりあい欠けた側面を持った思想という事になるわけであります。

その点では行動というものを前面に押し出した思想というものが、西洋思想の今日までの欠けた部分を補う非常に大きな意味を持っているという点で、この「行仏威儀」という巻も大いに勉強してみる価値のある巻だという事になろうかと思うわけであります。――


            ―西嶋先生の話―

道元禅師は何を言われたかと言うと、偽ものも本ものもそれぞれに価値はあるけれども、一番大切な事は自分自身が本ものになる事だ。自分自身が本ものになる事とは、坐禅をするということ。私がこういう事を言うと、どうも西嶋の意見は常に我田引水であると言う事になる。しかし私は長年坐禅をやって来て「こんないいものはない」と常にしみじみ感じる。だから、皆さんにも是非と言う事で勧める訳です。

坐禅と言うのは決して難しい事でも苦しい事でもない。ただ毎日やっていると訳もなく健康になる、気持ちが落ち着いて来る、ものがよく見えてくる。普段なぜよくものが見えないかと言うと、大抵は色んなその他諸々に引きずられているから。そういうその他諸々がなくなってくると、ものが見えて来ると言う事が我々の人生にはあるわけです。坐禅はそういう点では非常に意味がある。今日、坐禅と言うものは、そう高く評価されていない。だからやる人は非常に少ない。

しかし実際にやってみると、坐禅ほど世の中の見方が素直になってくる修行法はない。我々のものの見方と言うものは、特別に体験を積んだとか知識が豊富と言う事よりも、余分なものがないと言う事の方が大事。素直に実態が見えるという事が非常に大切。
経験とか知識とかももちろん大切だけれども、そう言うものから脱け出して素直に実態を見ると言う事が、我々の人生がどういうものかと言う事を見ていく上において、あるいは商売の上で実態がどうなっているかと言う事を見ていく上で非常に大切だと言う事が言えると思う訳であります。
  
我々の生活の実態は、時々刻々入れ替わっている。だから三年前、五年前の実態と今日とでは入れ替わっている。その事を常に頭において常に変わった事態についていくためには、色々なものにこだわっていたらよく見えてこない。様々なこだわりと言うものから脱け出した時に、実態がよく見えるという事情があるわけです。そのためには、何も考えずにジ-ッと坐っていると言う事が、一切のこだりから脱け出すと言う修行。

そういう状態でものを見た時には、目の前のものがそのまま見えてくる。目の前のものがそのまま見えてくれば、人間、問題がない。ところが大抵は色んな解釈をして、あるいは色んな好き嫌いでものを見るから、そのまま見えないと言う問題があろうかと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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