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正法眼蔵 行仏威儀 15

我々の住んでいる世界を、無数の国土と表現したり、蓮華のような世界だと表現したけれども、それらはほんの一つの表現に他ならない。 

仏教を勉強している多くの人々は、「全宇宙」という言葉を聞くと、人間の住んでいる娑婆の世界だと思ったり、東西南北の四つの大陸全部と考えたり、人によっては中国だけを天地一杯と考えたり、また別の人はこの日本だけが全宇宙だと考えたりする。そして「全大地」と言う言葉についても、単純に大千世界が無数に集った世界だと考える。

仏道で考えている、全宇宙、全大地というものは、途轍もなく大きな無限の世界であるから、東西南北の四つの大陸全部と考えたり中国だけを天地一杯と考えたり、日本だけが全宇宙だと考えるならば、非常に狭い考え方である。この全宇宙、全大地と言う言葉を学ぶについては、三回、五回と繰り返してそれを考えてみる必要がある。広い世界に決まっていると言う単純な理解だけでは、全大地、全宇宙を理解した事にはならない。

この道理がわかるという事は、極端に大きいものは小さいものに通じ、極端に小さいものは大きいものにつながると言う事を理解し、仏教界の諸先輩の境地を行動によって乗り越えてしまう事である。大きいとか小さいとかと言う問題ではないと言う事は「一体どういうことなのか」というふうに疑問を持ちかねない問題であるけれども、明々白々として疑う事の出来ないものは、我々の日常生活において行動を通して真実と一体になった威風のある姿に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
人間が死んだ場合、仏教では死後の世界がないと・・・。先生はエジソンを例に出されて、エジソンは生きていない、死んでしまったけれども、エジソンの残したものはある…と。その辺のところをもう一度お願いします。

先生
この会場にある蛍光灯そのものもエジソンが努力した、その後の継承なんですよ。だからエジソンという人物がいなければ、我々はこういう明るい電気の下で本を読むことができないというのが実情です。

質問
私たちは、まだエジソンが生きていると考えるんですけれど、エジソンの側からしたら「私は生きている」とは考えられない・・・。

先生
考えていないし、考える必要はないんです。だからその点では、我々が死んでいった場合に、その次に生まれ変わるという考え方をとるわけではない。ただ生きている間に一所懸命にやったというものは永遠に残るという考え方です。

質問
それは、死後がどうなるかという事とは結びつかないわけですよね。

先生
うん、そうです。だからそういう点ではむしろ、我々の人生は生身の体が生きておるだけの問題だから、生きておるうちは大いにデタラメをやらないと損だという考え方は間違いだと、こういう事です。生身の体が生きておるだけの人生だと、こういうことになると、おいしいものを食べて、できるだけデタラメをやって、それで終わっていいんだと、こういう考え方になりがちだけれども、そうではないんだと。

質問
しかし、他の人がそれをどう見るかが、今生きている、生きていないという事に結びつく。でも死後の世界では自分には責任がないという事ですよね。だからそうすると・・・。

先生
だからその点はね、「いい仕事をした」というふうに言われる一生がいいか、「あの人はずいぶんデタラメをして、人様に迷惑をかけた」と言われる一生がいいかという問題です。だからもうあと何にも残らないんだという考え方になれば、人からどういわれようと、やりたい放題やった方が得だと、こういう考え方もできるわけです。仏教の立場はそうではない。自分はこの世からなくなるけれども、のちの世というものが当然その後も続くんだと、こういう考え方です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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