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正法眼蔵 行仏威儀 13

我々は様々な行動を行い様々な行動から離れ、同じ門を出たり入ったりして日常生活をやって行くのであるけれども、この我々の住んでいる世界は、一切が明々白々として隠されたものは何もないのであるから、釈尊が説かれた蜜語(声に出さない言葉)、蜜証(言葉で言わずに心の中で密やかに示された体験)、蜜行(人には見えないところで行われた実行実践)、蜜付(人には見えない形で後世の人々に与えた教え)等が実際にあるのである。

我々の日常生活においては門を出ても様々の煩わしい問題がたくさんあるし、門から入っても煩わしい問題がたくさんある。その様な状態であればこそ、立場を変えてみるならば、煩わしい問題はどこにもないと言う捉え方も同時に出来る。ここで「出る」とか「入る」とかと言う言葉を使っているけれども、「入る」とか「出る」という言葉はこの場所でも必要がないし、あそこの場所でも必要がない。

いま現に行っている行動とは、いま実際にやっていると言う事で、それを止めなければならないと言う事はないけれども、その現に行っている行動もしょせんは夢まぼろしであり、空に描かれた花の様なものでしかない。しかしながら、我々の日常生活そのものが、夢まぼろしの様な空に描かれた花の様なものであるけれども、本当にそういう実体を捉えるという人が一体どれだけいるであろうか。
 
その様な立場から考えてみると、足を進めてもそれは誤りであるし、足を進める事ができなくておっかなびっくり足踏みしていても、それも間違いである。一歩踏み出しても、それが間違いであるし、さらに二歩踏み出しても、やはり間違いだと言う事が我々の日常生活であり、我々の日常生活というものは誤りの連続である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は、嫌で嫌でしょうがなくて坐禅をやられるなんていうことはなかったと思いますけど・・・。

先生
いや、若い頃から坐禅が好きだったわけじゃないですよ(笑)。だけど「やらなきゃいかん」と思ってやったという事が最初の状態だったと思います。

質問
ああ、そうですか。最初はやはりそうでしたか。

先生
最初はそうです。何のために役立つんだかよくわからないけれども、とにかくやらなきゃいかんと思ってやったというふうなことが最初です。だから最初から毎日やれたわけじゃなくて、初めは三日やって五日休みとか、一日やって二日休みとか、そんなことが何年か続いたわけです。で、そのうちに毎日やれるようになってきたという事ですから、その点では、最初から坐禅が好きで好きでしょうがなかったというわけではない。

質問
で、今は楽しくて楽しくてしょうがないですか。

先生
今わね、坐禅ぐらい恵まれた時間はないと思いますね。だから人生における最高の贅沢だと思います。坐禅ほどの贅沢はこの世の中にないと思います。うまい酒を飲んでみても、うまいものを食べてみても、その他のいろんな楽しみをやってみても、それに伴う様々の煩わしさは残るんです。ついて回るんです。ただ何もしないで背中を正してジ-ッと坐っておるという事は、このくらい楽しいことはないというのが実情だと思います。


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コメント
589:坐禅は最高の贅沢 by せっせせっせ on 2016/11/28 at 09:39:17

私も実感出来るようになって来ました。
足が痺れ、眠気で倒れ、時間短縮したりしながらも、朝晩30分の坐禅の習慣を続けてみると、今は背筋をまっすぐに座っていることがその日一日のあらゆる場面の行動する判断の基準になってくれているような気がしてます。
また、夜の坐禅をすることで、心身の状態を戻して健康でいられるような気がします。(前はよく神経を使い過ぎて偏頭痛で体調を崩してました)
なので、今では朝晩の坐禅はやめるわけにはいかない最高の贅沢になりました。

590:Re: 坐禅は最高の贅沢 by 幽村芳春 on 2016/11/28 at 12:13:37

せっせせっせさん、コメントありがとうございます。

坐禅は最高の贅沢、まさに三昧王三昧ですね。
思いがけない初雪がつもり、早々と冬の季節になりました。
寒くなると坐禅をしている時、手足が冷える様になりますが、
そんな時は一枚足にかけ部屋も暖めて坐禅をするとよいと思います。
これからもよろしくお願いします。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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