トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行仏威儀 12

行仏威儀(行動する仏に具わる威風)というものを勉強してみるに当たって、一つの勉強の仕方がある。

自分自身の意識からすると、ここに真実があり、ここに自分がある、と言う考え方が基礎になって行動を考えるわけであるけれども、実際の行動の場面になるならば、大鑑慧能禅師と南嶽懐譲禅師との場合の様に、自分自身であり、その相手であり、その自分自身、あるいはその相手に具わる威風が、まさに「行仏威儀」の実体であり、それは、自分自身がねじり鉢巻で頑張るという場面もあるけれども、また別の立場から見るならば、この世界のあらゆる方角に真実を得られたたくさんの方々がおられて、その方々が何の特別の意識もなしに、ただ自然に行動されているという状況でもある。

その様な自分自身を中心にして、何としてでも頑張るという場面と、自分が意識的な努力を一切行わなくても、ただ自然に真実がそこに具現してくるという場面と、両方の場面があり、その「行仏威儀」の現れ方とは、これらの状況だけに尽きるものではない。

そこで過去における仏教界の先輩が「頭の中で考えた理想的な事柄を、具体的なこの場所に持ってきて現実に実践する事に他ならない」と言われた。この様な形で我々の心の中における側面と、我々の具体的な行動における側面と、その両方のものを兼ね具えた形で理解していくならば、この我々を取り巻いている様々な実在も抽象的な姿ではなしに、具体的な現実として直接我々と一体になっている。

この様な形で行いを実践していく具体的な人は、実際の様々な場面において、様々の障害にぶつかりながら実践していくことに他ならないのである。その様な具体的な体験においては様々な障害があればこそ、実際の具体的な体験において一切の障害から脱け出す形で実践が行われていくのである。障害があればこそ、自由があるのである。

※西嶋先生解説
――この辺も道元禅師の独特の思想で、我々は抽象的にものを考えると、障害は障害、自由は自由という事で、別々で障害がなくなったところに自由があると考えるわけだけでども、現実的に考えるならば、障害があればこそ自由があるという考え方をされるわけです。――


日常生活において、目に見える明々白々とした様々な事物があるけれども、そういうものを目の前に見ながら、たった一つの釈尊の教えも、本当の意味では何も自分には見えませんというふうに、自分の気持ちを動揺させる必要はない。現にこの具体的な場面に真実がすでに現れている事であり、ここの場面だけではなしに、自分の所から距離の離れたあの場面においても、すでに真実は具体的に現れていると言う事がいえるのである。

※西嶋先生解説
――これは頭の中で考えた世界ではなしに、実際に行動する世界においては、我々の環境が理屈ではなしに現実として、その瞬間瞬間に具体的に出てくるということ。――



              ―西嶋先生の話―

かつて生産力が非常に低い時代、つまりご飯を食べるために朝から晩まで畑を耕して一所懸命働いて、ものを考える時間がほとんどない時代がかなり長く続いてきたわけであります。そういう時代に比べると、今日は生産力が非常に発達している。我々は朝から晩までものを考える時間の余裕ができた訳でありますが、その反面ものを考えない時間を持つと言う事が非常に少なくなってしまった。

そういう点では、ものを考えない時間がいかに楽しいか、いかに本質的なものを含んでいるかと言うのを、実際に経験するのが坐禅の意味だとそういう事も言える訳であります。何をせずにジ-ッと坐っている事の楽しさがわかって来ますと、逆に世間でいわゆる楽しみと考えられているものが、いかにはかないかと言う考え方というものが出て来る訳であります。お酒を飲む事にしても、本当に楽しいのかどうか。飲んでいるご当人が本当に楽しんでいるのかどうかと言うと、どうも疑問があるような気がする。
  
我々が一生として与えられた時間は、長い人でせいぜい100年、大体の人は80年、90年位で終わりになるわけです。そうすると我々の一生と言うのは無限に長い時間ではない。星を眺めていると、我々が目にする星の光は何億光年も前にその星から出た光である。「一億光年」などと言ってみても、我々の常識ではとてもその長さが想像できない。そういう長い時間と比較すると、80年、90年、長いと言ってみてもアッと言う間の時間しかないわけです。

そのアッと言う間の時間をどう生きるかという事は、人生を考えてみる場合に非常に大切なわけであります。その非常に貴重な時間の一部をアルコ-ルを体の中に入れて、とにかく楽しい様な錯覚に陥って過ごすと言う事が、本当に我々の人生の楽しみとして評価できるのかどうか。この辺は大変疑問なところであります。その点では、我々はどんな事をやる自由もあると同時に、何をやったら自分が一番楽しいと感じるかと言う事、この事は人生問題を考えてみる上において非常に大切な事ではなかろうかと思うわけであります。

世間ではお酒を飲む事は楽しくて、坐禅をやる事はつらいと言う理解ですが、はたしてそうなのかどうかという事は、大いに自分自身の体験として味わってみる必要があると、そう言う事がいえようかと思うわけであります。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

FC2カウンタ-