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正法眼蔵 行仏威儀 11

大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊の教えを実践するためには、釈尊の教えを棚上げしなければならないという事があるばかりではなく、自分自身の真実に対する燃える様な気持ちのために、釈尊の教えも消えてしまってただ一所懸命やるという実践の場面だけが出てくる場合もある。何もかもが問題にならなくなって、ただ一所懸命にやるという事の中に無限の価値があると言う事を忘れてはならない。

真実を得られた方々の考えや釈尊ご自身の考えを持って来て、実践の世界を頭で考え様としたり推測しようとしてはならない。釈尊の考えと言えども、それが考えというものである限りは、我々の考えと性質においては少しも違うところがなく、一切を考えだけで尽くす事はできない。それはこの世において花が咲いたという部分的な事象と同じ事であって、釈尊の考えと言えども一切を包みこんでいるというわけにはいかない。

※西嶋先生解説
――この辺が道元禅師の思想の痛烈なところです。我々は抽象的にものを考えれば、教えという尊いものがあって、その教えさえ身につければ何でもかんでも用が足りると思っておるけれども、道元禅師はそうは考えになっておらない。釈尊と同じような考えと言えども、我々が実践するところの日常生活を想像し推察することはできない。――

心で考えたことによって、行仏(行動を通して真実と一体になっている仏)が具えている威風を手探りで見つけることはできない。心で考えて坐禅の素晴らしさを想像してもこれはできない。我々が眼で見た世界が一切を含んでいるというわけにはいかない。具体的なほんのつまらないものの中にも実在としての尊さがあり、それが釈尊の心そのものであるというところからするならば、頭であれこれ考えるよりも、現実の事態に実際にぶつかるという事の方がはるかに大きな内容を具えている。行仏が一体どういうものであるかという事を多少つかんだところの一つの例である。

一つの心によって考えられた事が無限の仏の考えを包み込んでいると判断し理解したとしても、行仏の様子や動きを考えてみようとするならば、元来心で考えきれるものではない。このように行動には頭で考える事のできない非常に大きな内容があるから、自分の頭で考えたと思いこんでみても、考えるそばからどうも具体的な行動と合致しない状態が常に生まれ、どうしてもぴったりとした表現が出来ないものであり、その考えを活用しようとしてみても何らの役にも立たないし、それを単に想像しようとしてみても、どうしても想像さえ出来ないところのものである。

※西嶋先生解説  
――この様に行動というものと、心で考えた内容とがいかに違うかと言う事を、道元禅師は再三再四言っておられる訳であります。こう言う行動というものと、我々の考え・思想というものがいかに違うかと言う事が、仏教思想と言う考え方の特徴でありまして、こう言う思想は世界のどこにもない、仏教以外には世界のどこにもないという風に見ていいと思います。その仏教の基本的な考え方が、今日、西洋文明が持っている悩みの解決に役立つと言うことがあるわけであります。
  
西洋文明の持っている悩みとは何かというと、それは心と物との二つのものに一切が分かれていると言う事。我々も西洋文明の勉強をして大きくなったわけですから、我々のものの考え方も必ず精神的にはどう、物質的にはどうと言う二つの分け方をする。これは学校教育の成果。これは非常に西洋文明の特徴として意味が大きい事は大きいんだけれども、それと同時に、心と物とが二つに分かれていたら安定と言うものがない、調和と言うものがない。
  
だから西洋文明そのものがそういう不安定な状態にいま非常に悩んでいると言う事、これは否定する事のできない事実でありまして、それを解決する手段が仏教の中にある、と言うのが我々の見方という事になるわけであります。――


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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