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正法眼蔵 行仏威儀 8

仮に仏も一人もいない、人間も一人もいないという場面においても、百千万劫と言うような無限に近い年月を経過したとしても、行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)に対しては、誰もそれを汚すことができない。したがって、行動を通して真実を求めていく場合には、修行とか体験とかというものは、現実の具体的なものとしてあるのであって、頭の中で考えて修行が先で体験が後、と言う考え方で汚すというわけにはいかない。

その点では、修行とか体験とかというものが汚されるものではないという事ではなしに、そういう頭で考えた解釈を乗り越えて、絶対の行仏が我々の日常生活において現にあると言う事に他ならない。この「汚されるものではない」という事実は、具体的に存在しないという事ではない。

この問題について大鑑慧能禅師が言われた。「今ここに述べた修行と体験とはまったく一つのものであって、修行と体験とを別々に切り離す事はできない、現実の行動が現にあるに過ぎないと言う状態とは、真実を得られた沢山の方々が、いずれもそういう状態にわが身を置きたいと念願されたところのものであり、お前(南嶽懐譲禅師)もそうであり、私もそうである。中国における我々だけではなしに、インドにおける真実を得られた方々もまた同様である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
悩みに悩むのも結構でありますが、悩みを放っておけばどうなりますか。時が解決してくれますか、ある程度。

先生
うん、放っておければね。放っておければ、大いに放っておくしかない。我々の日常生活、放っておけない事がいくらでもあるんですよ。どっちかを選ばなくてはならない。あるいはどの程度の対策をとらなければいかんという決断の問題は、日常生活で常にあるわけです。放っておけば放っておく事も一つの解決方法だけれども、放っておけない場合がいくらでもある訳です。ほとんどの場合が決断しなければと言う事ですよ、我々の日常生活は。
     
そういう形で日常生活において、具体的な問題として悩みに悩むと仏道がわかってくるんですよ。具体的にどういうものかという・・・。実に微妙なもんですよ「法」のあり方というのは。「法」というのは、具体的に我々の日常生活の中に明確にありますね。その明確にあるものに触れていくというのが仏道修行です。
     
だからその点では、仏道修行は実に生き生きとした、血の通った修行ですよ。活字を追いかけているのとは訳が違う。その基礎が坐禅にあると言う事になろうかと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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