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正法眼蔵 行仏威儀 7

行仏(現実の世界で行いを通して真実と一体になっている仏)は、決して自分自身の持っている束縛に拘束されないのである。

法華経の中に「自分は菩薩行(真実を求めて一所懸命努力する人の行い)を実際に実践した。その成果である生命が今猶(いまなお)尽きることなく、永遠の意味を持っている」と言われている釈尊の言葉がある。まさに銘記すべきである。「永遠」とは、頭の中で考えて、空(くう)にあって連綿として今でも続いているとか、無限の過去に向かって続いているというふうに考えがちであるけれども、そうではない。

釈尊が述べた永遠とは、現在の瞬間において完全な状態を達成していると言う事である。今猶といっているのは、単に時間が長いと言う事ではなくて、現在の瞬間でありながら、しかも永遠の意味を持っているという事に他ならない。釈尊の菩薩行は頭の中で考えれば、一切のものが時間的にも場所的にも完全に統一された状態の永遠の世界であるけれども、もっと具体的に考えるならば、永遠という事はどうでもいい事であって、いま与えられた現在の瞬間をどう生きていくかという事に尽きるのである。

この様に考えてくると、我々の日常生活における行動とは、その行動があり、その行動に伴った体験がある。したがって、修行(行動)も体験もないわけではない。しかしながら修行があって、それに伴って体験が得られる、あるいは修行を長年積むことによって悟りが開けると言う二つに分かれたものではない。だから修行と言う言葉に相当するものがあるともいえないし、体験と言う言葉に相当するものがあるともいえない。修行とか体験とかというものは、別々に頭の中で考えるべきものではない。



             ―西嶋先生の話―

私が仏教の話をするのはどうしてかと言いますと、今日の仏教はあまりに「葬儀」に中心が置かれている。そして、仏教思想についての関係が非常に薄れていると言う事情がある訳であります。私は「仏教思想」というのは、一つの「哲学」であるから社会の中に広まっていかなければ意味がないと言う考え方を持っております。そこで従来の仏教と現代の社会とを結びつけると言う事をかなり努力してやって来た訳であります。しかし、これが実際問題としてはなかなか難しい問題であります。

お寺の方々は仏教の教えよりも、やはりお葬式が中心になって活動が行われていると言う事が実情であります。それからまた、一般の社会生活をしている人々は、専門家ではないのだから、ほどほどにと言う気持ちで仏教を勉強する場合が多い。こう言う事から、その二つを結びつける事が意外と難しいと言う実情がある訳です。私は、その二つの中間に出家も在家も両方含んだ形で、「本当の仏教を勉強する集団」と言うものが出来なければならないのではないかと言う見方をしております。

そのことは、家庭生活を持つ持たないは別にして、ものの見方が仏道の立場に入っていかないと本当の仏教思想と言うものは身につかない。それと同時に、仏教の教えと言うものを、あくまでも一般の人々に知ってもらって「社会生活を仏教の教えに従って実行していく」と言う事が目標であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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