トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行仏威儀 5

行動を通してこそ、初めて仏道の世界に入って行くのである。

修行を行動でしないならば、釈尊の教えと似たような様子はしていても、実際には人間にとって邪魔になる教えに巻き込まてしまって、それから脱け出す事が出来なくなってしまうのである。仏縛といっているが、この言葉の意味は、真実を頭の中や言葉の上だけで真実と理解し、現実のいま目の前にある外界を受け入れ、現実の目の前にある物事に対する理解に縛られてしまうことである。

つまり、自分の考えや自分の理解に縛られてしまうことである。瞬間瞬間にどうしても、この仏縛というものから離れる事ができず、いたずらに間違った理解をする。

※西嶋先生解説
――この「仏縛」という言葉は、ここでは非常にやかましく難しく書いてあるけれども、結局は「気になる」という事。我々の日常生活で気になる。さあ気になったらどうもしようがない。「忘れよう、忘れよう」と思っても、気になって気になってしようがない。いくら忘れようと思っても、どうしても気になるという事は我々の日常生活ではいくらでもある。

その気になることをどうやったら忘れられるかというと、目先の仕事に打ち込むという事が、気になることをフッと忘れてしまう大きな原因。その点では行動を通して、自分のやることを通して、気になることから脱け出さなければならん。ところが普通、我々はそういう考え方をしない。気になることを後生大事に頭の中に入れて、「困った、困った」という事で日常生活を送っていくというのが我々の普通のあり方である。――

普通に考えるならば、真実をそのまま真実として受け取り理解するのであるから、真実に適合した考え方、理解の仕方という事になるであろう。誰がこれを間違った考え方と言い切ることが出来よう。しかし、よくよく考えてみるならば、何の束縛する縄もないのに、みずから自分自身で縛ってしまう事態である。次から次へと束縛の状態が絶えまなく続いており、その根源が切断されて束縛が解消するという状態になっておらず、ただ無駄に真実の周辺における古い習慣のなかでどたばたと騒いでいるにすぎない。一番大切なのは、その「法」が歪んで、苦しんでいると言う実体に気がつかず、この具体的なわが身というものがなぜ窮地に立っているかと言う事の原因がわかっていない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅ということは、いつ頃から始まったんでしょうか。

先生
釈尊が生まれる以前から、坐禅という修行法はあったようです。ただ釈尊が坐禅に対して取られた理解の仕方とは違っておったという事は言えると思います。足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジーッと坐っておる修行法というのは、釈尊が考え出されたものじゃなくて、釈尊が生まれるずっと以前からあったという事は言えると思います。

質問
それでもやはり違うんですか、釈尊以前と以降と。

先生
どこが違うかという事は、一番はっきりした違いというのは、釈尊以前に行われていた坐禅、それは今でも同じような坐禅は行われておりますけれども、何らの悟りをつかむというための坐禅と、ただ坐ることに意味があるんだという理解の仕方の坐禅との違い、そういうふうに見ていいと思います。

だから「正法眼蔵」において説かれている坐禅のやり方と、それ以外の坐禅のやり方との違いとみて間違いないと思います。道元禅師が事あるごとに「正伝の仏法」と言われた言葉の意味は、何が正伝かという事を詰めていけば、坐禅に対する見方の違いという事に尽きると、そういうふうに見ていいと思います。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-