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正法眼蔵 行仏威儀 4

我々が実際に行動する事と、ものを考える事とは、まったく別の世界の出来事である。

この行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)は、与えられた瞬間瞬間に威厳のある姿が現実に具体化していくのであるから、その与えられる瞬間の直前においても、すでに威厳のある姿が具体的に現れ、その威厳のある姿は日常生活の瞬間瞬間に現れてきている。

その様な威厳は人に何かを教えようよする場合に、その人が本当のものを掴んでいる場合には、ものを言う前からその人の威光が相手に伝わると言うことでもある。それはどんな場所においても、どんな時にも、どの様な真実を得た人であろうとも、どの様な行いに際しても、常に教えなければならない要点が言葉ではなしに自然ににじみ出てくる。この行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)でない限り、仏縛、法縛から脱ける事ができない。

※西嶋先生解説
――仏縛というのは、仏による束縛。仏による束縛とはどういうことかというと、我々が仏教というものを頭において勉強したいと思う場合には、頭の中で仏教を考えがちである。そうすると、こういうことをしたら仏さん(釈尊)の教えに反するか反しないかという事ばかりが気になって来る。本を読んで仏教を勉強する人のいき方というのはほとんどこれ。坐禅を知ってこそ初めて、理屈でなしに仏道というものがわかって来るわけです。

ところが仏道を勉強してみたいという事で、本屋さんに言って、本を買ってそればかり読んでおると、これが仏道か、これが仏道でないかというようなことを頭の中だけで考えておるから、いつまでたってもそういう考え方から脱けられない。そういう仏という考え方から脱けられない状態を「仏縛」という。

それから法縛というのも、法というのは釈尊の教え。釈尊の教えはこういうものか、ああいうものかと頭の中だけで考えておると、これが釈尊の教えにあっているか、これが釈尊の教えにあってないかという事ばかり日常生活で考えるようになり、自分の行いそのものがぎこちなくなってしまう。どうやったらいいのかわからなくなってウロウロしてしまうのが、そういう人々の日常生活になってしまう。そのことを「法縛」というわけです。――



              ―西嶋先生の話―

沢木老師は三重県に生まれ、両親が早く亡くなったために親戚で養われていた。子供の時から、あまりいい環境に生活はしておられなかった。子供心に「惨めな生活で一生終わるのでは、とてもかなわん」と言う気持ちから、若い時に永平寺に歩いて行って「僧侶になりたい」と言う希望を出されたと言う事です。ところが、当時の仏教界はやはり家柄と言う問題もあって、すぐに僧侶になれなかった。そこで、寺の様々な雑用をやる事で生活していたわけであります。

だから普通の僧侶のように坐禅がやれない。普通の僧侶は坐禅をやるわけですが、沢木老師は、洗濯に使われたり、食事の準備に使われたりはしても、坐禅はやらせてもらえなかった。ところで、寺院にも休日がある。ある日、僧侶の人が全員外出してしまって、留守番の沢木老師その他が残っていた。その時に沢木老師は、普段は坐禅が出来ないけれども、今日はできると言う事で、こっそり人のいない部屋に入り込んで、見よう見まねで坐禅をしていた。
  
寺にはいろんな雑用をするおばあさんがいて、そのおばあさんは普段は沢木老師に対してまだ僧侶にもなっていない小僧と言う事で、非常に意地悪くしてこき使っていた。「これをせい、あれをせい」と追いかけ回されて使われていたと言う事です。そのおばあさんが、沢木老師がその部屋で坐禅をしているなんて事には全然気が付かずに、鼻歌まじりに上機嫌でその部屋に入ってきた。部屋に入ってきて、初めは薄暗がりで気が付かなかったけれども、フッと沢木老師がその部屋で坐禅をしていると気が付いた時に、そのおばあさんが思わず知らずに腰を抜かした様にベタベタとそこに座り込んだ。

そして、沢木老師の坐禅をしている姿に対して合掌して「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と思わず唱えたことがあったと沢木老師が話しておられた。そのおばあさんが自分に対して合掌している時に、沢木老師は坐禅の姿には途轍もない威厳があるという事を感じられた。そして、坐禅というものの、言葉で説明する事の出来ない威厳のある姿というものをその時に感じたために「自分は一生坐禅をやると言う気持ちが固まった」と、そういう話をしておられた。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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