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正法眼蔵 行仏威儀 3

まさに銘記すべきである。

たくさんの仏(真実を得た人)と呼ばれる方々が、釈尊の説かれた教えの中にわが身を置いている状態は「さとり」を必要としないのである。悟ってから仏になるのではなくて、悟ろうと悟るまいと坐禅をしていれば仏である。そして、悟りを開いた後にも、さらに一所懸命仏道修行に励んでいくという、その日常生活のあり方がわかってくると、悟ったとか、悟らないと言う事はどうでもよくなって、ただ毎日坐禅をするだけの事である。

ただ頭の中だけで理解しているに過ぎない報仏・化仏・自性身仏等と呼ばれる仏にあっては、毎日の坐禅を通して仏の境地と一体になっていくあり方に比べるならば、それらの仏は夢にさえこの行仏の境地を知らないであろうと言えるのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分ではドッシリ落ち着いていたいのですが、周囲を気にしてしまい、したくない事もみんなと一緒にやってしまうのですが、自分に忠実に生きると言う場合に、そんな事はお構いなしにやったらよろしいんでしょうか。
  
先生
傍に合わせなくてはと言う気持ちと、自分はやりたくないという気持ちと両方あった場合には両方を捨てないで悩むんですよ。徹底的に悩むと最終的にどの辺に自分が止まればいいかと言うのがはっきり出て来るわけです。それ以前にどっちに行くべきだという原則論で動いてはいかんと言う事ですよ。人生とはそういうものですよ。

二つの極端な意見があって、どっちかに従えというのが新聞にいっぱい書いてある。雑誌にいっぱい書いてある。本にいっぱい書いてあるけれども、我々の人生はそう甘いものではないんですよ。一つの原則が右にあると反対にかならず左がある。その右の原則と、左の原則のどの辺に自分の位置を置いたらいいかと言うのが、我々の日常生活で毎日、瞬間ごとに要求されている決断です。

だからそういう点では、原則論で右に寄ったらいいんだ、左に寄ったらいいんだ言う事じゃなくて、右と左の対立している考え方の中間で悩みに悩むんですよ。そうして、悩みの果てに「これで行くんだ!」という自分自身の確信が出て来る。そういう確信で動くという事です。それは決して極端な形ではないんですよ。それは、傍から見てもおかしくは受け取られないし、自分自身の良心にも背かないしと言う生き方が必ず具体的にある。

そういう具体的な、ぎりぎりいっぱいの生き方を仏道と言うんです。ぎりぎりいっぱいのあり方というものが法です。だから、そういう具体的な形で法というものを学び、仏道を学んでいくというのが本当の意味での仏道修行です。
     
質問
その場合、反対側の方から仮に非常に極端に責められたとした場合に、やはり逃げてはいけないわけですか。

先生
逃げてはいけない。そういう場合に傍がどんなに文句を言おうとも、決然として自分の道を行くという事も仏道にはあるわけです。その言葉を「異類中行」と言うんです。これは「正法眼蔵」にもよくでてきますがね。傍がどう考えようと、俺はこれでやるんだという決断がついたら、決然として行うということも仏道の中にあるわけです。ただそれと同時に、もう初めから人に逆らう事が趣味だというような形で、何でもかんでも反対と言う人がいるけれども、そんなのは仏道ではない。
     
やっぱり周囲と自分の意見との間で悩みに悩まなきゃ。その結果「これだ!」と言うところがはっきり出てきた時に、自分の道が定まると、そういうことですよね。
     

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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