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正法眼蔵 行仏威儀 2

「行仏威儀」の巻、本文に入ります。

諸仏(真実を得られた方々)は、例外なしに実際に行動し具わる威厳のある姿(威儀)を実践している。これこそが行動を通して真実と一体になっている仏(行仏)の実体である。

※西嶋先生解説
――ここで「行仏」という事を説いておられるわけでありますが、例えばこの「正法眼蔵」弁道話の巻の中に「修せざるに現れず、修せざるにはうることなし」という言葉があるわけで、仏道とは実際にやらなければ出てこないし、実際に体験しなければわかるものではないと言われておるわけであります。だから仏道というのは、頭の中でいろいろと理屈を考えていることではなくて、実際に自分の体を動かしてやってみるという事にあるわけ。実際にやるという事、行動するという事、行うという事をほかにして仏道はあり得ないという事が基本的な考え方であります。――

行仏(行いを通して真実と一体になっている仏)とは、報仏(過去における因果関係の結果として得られた仏)の状態とは違う。化仏( 何か急に人間が変化して仏になった)というものでもない。自性身仏(自分自身が持っている性質が仏の実体)という事でもない。佗性身仏(他人様のおかげで何となく仏になっている)という事でもない。始覚(いま得られた真実)ということでもないし、本覚(ずっと昔から自分に具わっている真実)ということでもない。性覚無覚(本質的に真実と一体ということ)でもないし、無覚(真実を自分は持っていない)ということでもない。

※西嶋先生解説
 ――ここで「ない、ない」となぜ何回も言われたかというと、我々人間の値打ちは、何をやるかによって決まると言うこと。人間というのは本来尊い性質であるから、どんな悪い事をしても人間としての状態から外れる事はないとも言えないし、人間は本来だめなもんだから、どんなに頑張ってもろくな事はないという事でもない。人間は何をやるかによって、偉くもなれば、駄目にもなる、悪くもなれば、よくもなる。 人間の値打ちを決めるものは、何をやるかだと言う事が、この「行仏」と言う言葉の持っている本質的な意味であります。――

これらのいま挙げた仏というものは、いずれも頭の中で考えられた観念上の仏である。行動を通して真実と一体になった仏(坐禅をしている姿・状態)と同等だと考えるわけにはいかない。


             
           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
死というものを慰める言葉に、仏道では因縁であるからしょうがないと言うより他はないもんですか。

先生
それは因縁だからしょうがないと言う事よりも「法」ですね。法そのものです「現にそうある」と言う事。だから、傍からどうこうと頭で考えて論議すべき問題ではないと思います。

質問
それでわかりますか?「法」だって、何かまたそれに説明を加えなくてはわかりにくいんではありませんか。さしあたってどういう言葉が適当でしょうか。

先生
ただその点では、法と言うか、現実と言うか、この世の中のあり方というかね。解釈すべきものではないと思います。だから、非常に切実な非常に大切な問題でありますが、解釈すべきものではないと言う事が実体だと思います。現に現実としてあると言う事に過ぎない。
   
質問
坐禅をしていれば「法」に従って行動できるようになると言いますが、実際問題としてはどうしても分別が先に出て来る。これは、このまま坐禅をずっと続けていけば、そういう境涯に、またそういう無分別を体現できると・・・。

先生
道元禅師が「只管打坐」と言われたのはその事と関係あるわけです。我々は考えまい、考えまいとしても、そう言う考えまい、考えまいと言う努力をしているうちは、考える事から離れられない。むしろ、そんな事はすっかり忘れてしまって、機械的に毎日坐禅をやっていれば、いつの間にか、分別が先にたたなくなって、先に正しい直観が出て来る。そういう事は明らかにあります。結局は仏道修行はそういうことなんですね。
     

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コメント
587:行仏威儀 by せっせせっせ on 2016/11/16 at 22:42:51

「人間は何をやるかによって、偉くもなれば、駄目にもなる、悪くもなれば、よくもなる。
人間の値打ちを決めるものは、何をやるかだ」
いいですね、行仏威儀。
また楽しみです。

588:Re: 行仏威儀 by 幽村芳春 on 2016/11/17 at 17:19:57

せっせせっせさん、コメントありがとうございます。

おっしゃる通りです。頭の中で考えた仏ではなく、この現実の世界において日々真剣に行動し続ける人がすなわち行仏であると。
西嶋先生の解説はわかりやすいですよね。私も書きながら「うん、うん、その通り」と楽しみながら書いています。
これからも読んで下さいね。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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