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正法眼蔵 行仏威儀 1

「行仏威儀」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「行仏威儀」というのは何かというふうに考えてみますと、まず「行仏」の行は行うという意味、「仏」とは仏、行う仏というのはどういう意味かということが、まず最初に問題になるわけであります。この「行う」という事に関連しても、我々は人間の働きにはどういう種類があるかと言う事と関連づけて理解する必要があろうかと思います。人間の働きを大きく分けますと、三種類あるわけであります。

一つはものを考える働き。二つ目はものを感ずる働き。三つ目は行い。我々は今日、西洋文明の社会の中で生きているわけであります。日本は明治維新以来、一所懸命西洋の文明を輸入して、それを勉強したわけでありますから、今日我々の考え方を支配している考え方は西洋流の考え方であります。

一つ目はものを考える働き。
その西洋の考え方の特徴の一つは何かと言うと、人間のものを考える働きを非常に大切にするという事があるわけであります。だから西洋文明の基礎は、人間の考える働きが基礎になっていて、その事が西洋において科学を発展させ、その科学の力によって、今日、我々が非常に優れた文明の恩恵に浴しているという事が言えるわけであります。だから今日我々の住んでいる文明社会においては、ものを考えるという事が非常に大切な働きとして考えられているわけであります。

人を評価する場合にも、その人が頭がいいか悪いかと言う様な事をかなり重要な問題として考える、あるいは、沢山の知識を持っているかどうかという事をかなり大事な問題として考える。だからそういう点では、今日、学校制度というものがあって、学校に入れるか入れないかという場合にも、たくさんの本を読んで勉強しているかどうか、あるいはものを考える力があるかどうかという事を試験して、入れる入れないを決めるという制度になっておるわけであります。

その点では、今日の社会の一つの基準は、頭がいいかどうか、知識をたくさん持っているかどうかと言う事が一つあるわけであります。これは、西洋流の文明の基礎が、その様であるからと言う事で、日本の国にもその事が同じ様に引き継がれていると言う事が言えるわけであります。

二つ目はものを感じる働き。
色々なものを目で見るとか、様々の音を耳で感じると言う働きも、人間の働きとして非常に大切であります。我々は色々ものを考えると、頭が疲れる、頭の働きが非常に高ぶってゆっくり休めなくなると言う事もあるわけでありますが、そういう場合に、頭の働き過ぎを静める力が、ものを感じる事の中にあるわけであります。だから、頭が働き過ぎて困る場合には、音楽を聴くとか芝居を観るというような形で、外界の刺激を受け入れて、頭の働きを休める、静めると言うことが自然に行われる訳であります。

そういう点では、西洋文明の中で科学・学問と対立して、もう一つの大事な要素は芸術の分野。つまり、美しいものを見たり、美しい音を聴いたり、いい匂いをかいだりというふうな、感覚を通して得られるところの芸術の価値と言うものがあるわけであります。西洋文明は大体、この頭による文化と感覚による文化、この二つを重要な要素として発達して来たと言えるわけでありますから、我々が住んでいる社会もやはり同じ様に、頭の文化と感覚の文化と、この両方が対立しながら、我々の文化を形成していると言う事が、はっきり言えるわけであります。

この様な状態というものは、二千数百年前、釈尊が生きておられた時代にも同じ様な状況があった。それはどういうことかと言うと、人間が文化を形成する場合には、頭の文化と感覚の文化が優先するのは普通のあり方でありますから、釈尊の生きておられた古代インドの時代も決して例外ではなかった。ところが、この頭の文化と感覚の文化だけでは、人間の社会がどうしても二つに分かれてしまってまとまりがつかない、落ち着きがない、論争が盛んになって乱れて来ると言う事が、歴史的な事実としてあるわけであります。

その事を釈尊も非常に心配されて、二つに分かれた文化のあり方、文明のあり方というものを、何とか一つの落ち着いた形に統一しようと言う要望を基礎にしてつくられた思想が、仏教思想と言う事になるわけであります。

三つ目は行い。
釈尊はどう言う事を言われたかと言うと、我々人間のものを考える働き、あるいは感覚的にものを感じる働きも大切であるけれども、人間にとって大切なものは、体を動かして働く事、行動する事が大切だと言う事に気がつかれたわけであります。なぜそうかといいますと、我々の日常生活の一番本質的なものは、体を動かして働くと言う事にあるからであります。ここで「行仏」と言っている行うという事も、行動する、働くと言う事を意味するわけであります。

働く、行動すると言う事が、人間のあり方の本質であると言う事に釈尊は気ずかれて、そういう人間の働きを通して一つのまとまった思想をつくり出された。これが仏教思想の基本的な性格であります。だから、釈尊の教えは、人間の行動、働きを基礎にした教えだと理解して間違いないわけでありまして、その点ではこの「行仏」という言葉も、人間が働くことを通して、人間が行動する事を通して、真実と一体になると言う事の意味が「行仏」と言う言葉の意味であります。

「威儀」とはどういう意味かと言いますと「威」は、この字の下に風と言う字をつけて「威風」と言う言葉がある。立派な様子、立派な姿と言う事であります。「儀」とは形、姿と言う事です。だから「威儀」とは、威厳のある様子・姿と言う意味であります。行動を通して真実と一体になった人には、おのずから威厳を伴った外見と言うものがあるというのが「行仏威儀」と言う言葉の意味であります。

単に仏教だけにこういう問題があるのではなく、我々の人生すべての場面において、こういう問題があるわけであります。仏道修行は、行動を通しての修行でありますから、修行の結果どうしても否定する事の出来ない威厳というものが具わってくるという事が、この「行仏威儀」の巻で説かれている事の意味であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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