トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏性 82

長沙景岑禅師と弟子の竺尚書の問答について道元禅師の注釈は続きます。

我々の住んでいる現実の世界はこの様な世界であるにもかかわらず、動くならば「仏性がある」と考えたり、動かなくなったら「仏性がない」と考えたりする。また、我々の意識があるときには「魂がある」意識をなくなったならば「魂がない」と考える。また、我々の頭脳的な働きがある時には「仏性がある」頭脳的な働きがなくなった時には「仏性がない」と誤って固執するならば、それは仏教ではない考え方の人々に属する。

無限の昔から、愚かな人々の多くは、我々の中にある何らかの精神的なものが仏性だと考えている。また我々の心の中にあるものが、本来の人間としての実体だと考えている。しかしこれは、あまりにもおかしいために笑い転げて死んでしまいそうな事柄であり、理解の仕方である。

さらに仏性とは何かという事を述べてみるならば、日常生活において、「苦しい、苦しい」と思い悩んで生きていくという事だけが仏性ではないという事は言えるにしても、我々の現に目の前にあるところの垣根や壁や小石のような具体的な現実そのものが仏性に他ならない。この様な境地をさらに乗り超えた立場で考えてみるに、それではいったい仏性とは何なのかということになる。

そこで我々が考えてみなければならない事は、我々の日常生活において三頭八臂(腹を立てたり愚痴をこぼしたり、欲張ったり)と言う日常生活のあり方というものが、いったい仏性であるのか仏性でないのか、そのことが充分に究め尽くされているかどうか、と言う問題にもなるのである。
       
        「正法眼蔵仏性」
        1241年旧暦10月14日
        興聖宝林寺において衆僧に説示した。

※西嶋先生解説
以上が「仏性」の巻という事であります。ここの巻で伸ばられていることは、仏性、仏性というふうに仏教界では昔から言われていて、仏性というものが何か非常に抽象的な非常に精神的なもののように理解されているけれども、現実の我々そのものが仏性と呼ばれる性質そのものに他ならないという事を様々の角度から述べてこられたのがこの「仏性」という巻の趣旨だと、そういうふうに理解して間違いないと思います。      



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「三頭八臂」というのは噴怒の形相、ものすごく怒り狂るっている人の姿と・・・。
    
先生
ええ。これは阿修羅とか、愛染明王、お不動さんとか、頭が三つあるとか、手が八本あるという様な人間の荒れ狂った状態を形にした仏なり、あるいは仏に準ずるものがあるわけです。我々の日常生活のあり方でもあるわけですよね。だから我々が腹を立てているときというものと仏性と言うようなものと、どういう関係にあるか十分に勉強してみたらどうかという事を最後に言われているわけです。

※私の独り言
仏性の巻がやっとやっと終わりました。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


   
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

フリーエリア

仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

カテゴリ

FC2カウンタ-