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正法眼蔵 仏性 81

長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。

別の例でこのことを説明するならば、たった一つの音によって現実の世界のありのままの姿が説かれていると言う事が現にあるということであると同時に、法を説くという事、現実を示すという事は、特別の言葉があるわけではなくて、現実の音が現に聞こえているという事に他ならないのである。法というものを考えてみても、抽象的な教えがあるわけではなくて我々の耳に響いてくる一つ一つの音が法そのものである。なぜかというと、一つ一つの音も、現実の世界における紛れもない実在であると言えるから。

仏性についても、我々が生きている時だけ仏性があって死んだならば仏性がないのであろうと考える事は、見聞が少なく理解が薄いといわざるを得ない。生きている時も仏性はあるとも言えるし、仏性がないとも言える。また我々が死んだ場合にも、仏性はあるとも言えるし、仏性がないとも言える。

もし仮に物としての力がなくなった、まだなくなっていないと論議する事が出来るならば、仏性がなくなった、まだなくならないと言う事も論議できるはずである。ただ現実の世界は、物質的な力がなくなった場合でも、仏性が現にあるとも言えるし、仏性が現にないと言う表現も出来る。つまり我々の住んでいる現実の実体は、あるとかないとかと言う表現を乗り越えた実体である。物としての力、物質としての力が、まだなくなっていない時でも仏性があると言う主張も出来れば仏性がないと言う主張も出来る。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                                --つづき

先生
だから「正法眼蔵」の中には必ずこの四段階の考え方が入っているわけです。私が若いころ「正法眼蔵」を読んだ場合には、一番最初の段階だけはわかったんですよ。発菩提心―なるほどそうだ、真実を知りたいという気持ちを起こすことが必要なんだ、それがすべてだという風にだけ考えていると、後の二番目、三番目、四番目が皆目わからない。
                            
だから「正法眼蔵」を読んだときに、一番最初に四分の一はわかるわけです。たいていの人がそうです。四分の一だけ、非常にいいことが書いてあるから何とか読みたいと思うわけ。ただ後の四分の三は皆目わからないと言うのが事実です。なぜ四分の三がわからないかというと、「正法眼蔵」は四段階の考え方で説かれているという事に気がつかないと、四分の一しかわからないし、四分の一わかったところで、四分の一だけの解説をして後は適当に流しておくという解説がいくらもあるわけです。ただそういう読み方をしていると、仏教そのものがわからないと、こういう問題があると思います。

だから「正法眼蔵」の難しさは、もちろん難しさもありますけれども、一番「正法眼蔵」の難しさの基本になるものは、四段階の考え方で書かれているという問題、つまり仏教思想が書かれているという問題です。釈尊の説かれたのと同じことが書いてあるという事は、四段階の思想が書いてあるという事だし、その四段階の思想がわからないと釈尊の教えそのものがわからないと、こういう事になると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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