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正法眼蔵 仏性 80

長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。

長沙景岑禅師が「物質としての力がまだなくなっていないまでだ」と言われたことは、この言葉のうちに、仏性というものがよく現されていると言えるであろう。物質的な力が仏性であるかどうかと言う疑問も持つべきである。また、仏性が物としての力だと言う考え方をするべきなのであろうか。仏性と物としての力とが二つあって、それが両方出て来ていると言うわけにはいかないし、仏性が出てくれば、物としての性質が引っ込む、あるいは物のとしての性質が出てくれば、仏性が引っ込むと言うわけにはいかない。

この様なことが、我々の住んでいる現実世界のあり方であるから、長沙景岑禅師もミミズに仏性があると言うわけにもいかなかったし、またミミズの中に仏性がないと言うことも言うわけにはいかなかった。ただ「つまらん事を言うな」と言われたし、また「物としての力がすっかりなくなっていないだけの事だ」と言われた。仏教界において古来から説かれている仏性というものの生き生きとした姿は、長沙景岑禅師の言われた言葉をよくよく考えて判断するべきである。「物としての力がまだなくなっていない」と言う言葉を、よくよく考えてみる必要がある。

「まだなくなっていない」と言う言葉には一体どういう意味があるのか。物質的なものが寄り集まって出来ているミミズから、その物質的な力がすっかりなくなってしまう時期がまだ来ないと言っていることを「まだなくなっていない」という言葉で表しているのか。そのように考えてはならない。「物質的な力がまだなくなっていない」と言う言葉の意味は、この世の中の真実が現実の世界を示していると言う事に他ならないのであるし、また、まだなくなっていない物質的な力と言うものは、現実が真実そのものを示していると言う事に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は「正法眼蔵」を若い時に読んだけど当時は中々わからなかったが、年を取るにつれてわかってきたという事を話されました。若い時には自己中心的なところがありますから、自分の都合でエゴイズムといいますか、そういう読み方をされていたのが、年を重ねるうちに自己中心主義ではなくなって主観と客観がだんだん近づいて来るから、わかる様になるという経過でしょうか。

先生  
いや、そういう経過ではなしに、まあ「正法眼蔵」の難しさの理由としてはいくつかありますけど、一つの思想としては、四つの考え方が重なっているという事です。その四つの考え方が重なっているという事が仏教思想そのものであるわけだけれども、そのことはどういう事かというと、主観・客観という関係でいうならば、最初の苦諦の立場とは、あくまでも主観主義です。俺はこう思う、俺は自由だと思う、俺は何でもできる、希望すればどんな事でも叶えられる、と言うのが苦諦の世界ですよ。

それから二番目の世界とは、客観を中心にして全部を考える世界。そんな事を言ったってもう現実はちゃんとあるんだ、人もたくさん生きているんだ、世の中は厳しんだ、もう成り行きに任せていくしかないんだと言うのが集諦の立場ですよ。

それで成り行きに任せて行くんだという事では、人間はもう生きていくことが嫌になるわけですよ。そうすると何とかしなきゃならんという事で、立ち上がるのが諦滅の立場。そうすると主観とか客観とかという理屈ではなしに、もう無我夢中で毎日の生活をするというのが滅諦の立場です。

だが無我夢中の立場で何かをやっていると、もう間違いだらけになってしまう。自分も傷つく、人も傷つける、どうにもならなくなるという事で基準が必要だ、そこで一番最後の段階として道諦の立場があり、坐禅に基準を求めてもう一度自分の人生を立て直そうというのが仏道です。
                         つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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