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正法眼蔵 仏性 79

長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師の注釈は続きます。

この質問に対して長沙景岑禅師は「つまらん事は考えるな」と言われた。この言葉の意味は一体どういうことであろうか。「つまらん事は考えるな」と言う事に他ならない。それでは、頭と尻尾と両方が動いている時には特別な事を考える必要もなく、ただ現実がそこにあるのだと言う主張をされたのであろうか。その二つが動いているというのは具体的な事実であって、頭で考えている事とは別だと言われたのであろうか。

また単純に仏性とは妄想(頭の中で色々と考える)ではないのだと言われているのであろうか。また、この長沙景岑禅師の言葉は、仏性について論議しているわけでもなく、また二つに切れたミミズについて論議しているわけでもなく、頭の中で余分な事を考えないという事を言われているのであろうか。検討してみる必要がある。

竺尚書は「現にこの様に頭の方も尻尾の方もピクピクと動いているではありませんか」と言ったけれども、現に頭が動いている、尻尾が動いているという事実の上に、さらに仏性をもう一枚かぶせるべきだと主張しているのであろうか。それとも、現にピクピク動いているという事は、仏性とは違うと主張しているのであろうか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をすれば、百人百色でもって、その人その人の捉え方というものがあってしかるべきだと思います。「こうでなくてはならない」というふうなパタ-ンにはめ込むものではないと思うんですが。

先生
うん。それと同時に、坐禅の究極というものは誰でも同じです。という事は、我々が「正法眼蔵」を読んでなぜ感激するかといえば、我々自身の中に「正法眼蔵」に説かれてたものと同じものがあるからですよ。我々が坐禅をしたときになぜ気持ちが落ち着くかと言えば、我々の中に坐禅と同じ境地のものがあるからです。それが外に出てくるだけですから。そうすると、仏道修行というものは誰の場合でも結局は同じものだという事が言えると思います。

そうでなければ我々が道元禅師の心境が分かるはずがない、釈尊の心境が分かるはずがない、天童如浄禅師の言われていることの意味が分かるはずがない。まがりなりにもわかるという事は、我々すべてが共通のものを持っているという事です。特に坐禅という修行法を経験した以上、その坐禅という共通の修行法を通じて誰でもが同じものが体験できるというのが釈尊の教えだとみて間違いないです。

それだけに坐禅は有り難いんです。だからそれだけに、坐禅なしに仏道があり得るかというと私は絶対にありえないと思う。だから私が坐禅、坐禅というのはそのためなんです。それと同時に、私が嫌われるのもそのためなんです(笑)。坐禅という事が書いてなければ、仏教書は読み物としては面白い。あいつ(西嶋)の本は、坐禅、坐禅と二言目には書いてあるから読む気がしないというのが実情だと思います。

ただ、私は坐禅、坐禅という事を書かないと仏教を書いた事にならないと思うから、人から嫌われるようでも、坐禅、坐禅と言うし、書くし、するしかないんです。それ以外に仏道というのはないですよ。そういうふうな関係があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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