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正法眼蔵 仏性 77

長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答です。

弟子の竺尚書問う。
ミミズが二つに切れて、頭の方も、尻尾の方もピクピクと動いている。仏性は頭の方と尻尾の方と、一体どちらにあるのでしょうか。

長沙景岑禅師言う。
つまらんことを考えるな。

弟子の竺尚書言う。
「つまらんことを考えるな」と言われるけれども、現にこの様に頭の方も尻尾の方もピクピク動いているではありませんか。

長沙景岑禅師言う
これは、頭の方も尻尾の方も、物としての性質がまだなくなっていないまでだ。

長沙景岑禅師と弟子の竺尚書との問答について道元禅師が注釈されます。
いまここで、竺尚書が「ミミズが切れて二つになりました」と言っているけれども、それではまだミミズが切れていないうちは一つだという事が本当に言いきれるかどうか。もしその様に言いきるとするならば、仏教界における諸先輩が常にとっておられたところの日常生活の態度というものにまだ十分通暁してはいない

ミミズは本来たった一つだと言い切れるわけのものでもないし、またミミズが切れたから二つになったという事も言い切るわけにはいかない。そこで、一つとか二つとかと言う言葉についての意味を十分に考えてみる必要がある。また竺尚書は「二に切れた頭の方も尻尾の方も、両方動いています」と言ったけれども、この頭の方と尻尾の方と二つに切れたミミズというものは、まだ切れていないときには一つであったと考えているのであろうか。さらにそういう一つとか二つとかというものを乗り越えた世界でのものの判断に従って一つと言っているのかどうか。

ここでミミズが一つとか二つとか言っているけれども、この一つとか二つとかと言う言葉の意味は、竺尚書が理解した程度の範囲の事柄ではない。だからこの問答に関しても、考える事の意味がないと言って検討をやめてはならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
私は究極的には今はっきり申しますと、毎日の人間関係の中で、坐禅をやっていることも多分大きなウエイトがあると思いますけど一匹狼でいられるんですよね。だから集団の中に埋没して、人と一緒にやらなきゃ不安だという気持ちはさらさらないわけですね。人といれば楽しいし、そこじゃ意気投合した話もできますけれども、あえてそうしなくちゃ日常淋しくていられないという事もさらさらなくて、一人でもって自由にのびのびとしていられる事の醍醐味を味わうというか、とても幸せなんですよね。

先生
そう。だからやっぱり仏教の境地の中には、「天上天下唯我独尊」という境地ありますよ。ただそのことは、人と一緒に住まわないということじゃなくて、人の中で揉まれていても「天上天下唯我独尊」という境地が同時にあるという事ですね。だから人と離れる、人と喧嘩をするという事が仏道ではなくて、沢山の人々の中に混ざって、喧嘩はしないけれども、自分の境地を持っているという事になると思います。それが仏道だと思います。

だからその点では、人里離れて孤独で暮らしていれば楽かもしれないけれども、仏教はそういう主張ではないんです。世間の真っ只中で泥まみれになって生きていても、自分自身の境地がはっきりあるという事が仏道の主張だとみていいと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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