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正法眼蔵 仏性 76

道元禅師の有(仏性はある)と言う主張は続きます。

雲居道膺禅師は「仮に釈尊の説かれた教えの周辺の事柄を学ぶ事について考えてみても、すでに誤って理性を活用しすぎてしまったと言う事に他ならない」と言われた。この言葉は、理屈であれこれ考えて様々な事を心配するよりも、現実にふれ、現実に直面し、日常生活を一所懸命生きろと言う事である。

この様な雲居禅師の言葉から考えていくならば、全部ではなく、半分だけ釈尊の教えの周辺を勉強した場合でも、非常に長い間にわたって理屈をこねまわったと言う誤りを犯す事に関しては、日とともに重なり、月とともに重なると言う誤りの連続であるけれども、その様な誤りを仮に犯していたとしても、やはり我々は現実の生活に生きているのであるから、犬の例にたとえてみるならば、この具体的な犬と言う皮の袋に犬そのものが入り込んでいると言う状態だと説明する事が出来るであろう。

したがって、理論の上では解かっているけれども、やはり説明としては何らかの言葉でそれを述べざるを得ないと言う事情があって、やはり「仏性がある」と言わざるを得ないであろう。



              ―西嶋先生の話―

涅槃(ねはん)という考え方が仏教にはあります。涅槃とは、感情の起伏がなくなって非常に静かになった状態を言うわけです。道元禅師も「正法眼蔵」の中で、仏道修行の過程を述べられた際に、発心・修行・菩提・涅槃という事をよく言われているわけです。したがって道元禅師の場合にも、仏道修行の究極の状態が涅槃であったという事は言えるわけです。

今日仏教が論じられる場合に、この涅槃という状態を問題にする例が割と少ないという事があるわけです。それはどうしてかと言いますと、人間はしょせん涅槃という状態には到達し得ないというあきらめが先に立って、涅槃というもの自体を問題にする考え方は、仏教の考え方の中でも小乗仏教的な考え方だと、こういう理解が割合多いわけです。ただ、仏道修行をやっておりますと、この涅槃というものが当然仏道修行の究極の姿でなければならないという事が言えるわけです。

我々は坐禅をやっているわけですが、坐禅をしている時の状態がプラス、マイナス零の状態であり、そういう状態が二十四時間続くことが涅槃の状態であると言えるわけです。その点では、朝晩坐禅をすることによって、絶えず三昧の状態を保持する、そのことが三百六十日続けば一年間涅槃の状態にいたのであるし、十年間続けば十年間涅槃の状態にいたという事に他ならないわけです。ですから坐禅という修行を実際に毎日やっていますと、涅槃に到達することはそう難しいことではない。ただそれと同時に、そういう修行法に頼らないと、涅槃というものを頭の中で考えただけでは、到底人間には到達できないものだという理解が残ってしまうという問題があるわけです。

その点ではよく浄土宗の思想を例に挙げまして、「親鸞聖人でさえ涅槃という状態には到達し得なかったんだから、まして我々はそういうものを目標にすること自体はおかしい、僭越である」と、こういう理解もあり得るわけですが、親鸞聖人、法然上人が非常に難しいと感じられた修行法とは、当時の比叡山におけるほとんど超人的な修行法が大変難しいと、こういうふうに言われただけでありまして、その点では坐禅と涅槃との関係から言いますと、毎日坐禅をやることによって涅槃の状態に入ってしまって、坐禅を続けている限り、涅槃の状態から出られないというのが仏道修行の実体だと、そういうふうに見ることが出来ると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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