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正法眼蔵 仏性 75

道元禅師の有(仏性はある)と言う主張は続きます。

趙州禅師は「過ちを犯す」と言う説明をされたけれども、ことさらそういう説明をする事がどうしても必要だと言う事にはならない。現に犬は犬として犬らしく動き回っているその状態というものは、人間がその解釈上するのと同じ様に犬までが理屈をこねて、仏性が自分の体にあるとかないとかと言っているわけではない。そういう理屈を全部乗り越えて、犬は犬らしく動き回っているに過ぎない。人間の頭で考えると言う事があればこそ、無理にその様な考え方をせざるを得ないと言う問題も起きてくるのである。

ここでさらに考えてみなければならない事がある。ことさらに抽象的な考え方をする立場は実は、犬が犬自身として具体的に理屈を抜きにして動き回っている状態もその中に取り込んだ理論であろう。その様な現実というものを説明したいがために、皮の袋の中に仏性が入り込むと言う説明をしたまでである。理屈や差別の世界を乗り越えて現に犬が生き生きとして動き、現に人間が生き生きとしている状態というものを中に含んでいる現実の世界というものは、自分の中にも生き生きとした動きは含まれているし、自分以外の中にも生き生きとした動きは含まれているのである。

しかもこの様でありながら、「どうもまだどっちつかずの不徹底な人間に過ぎません」などと弱音を吐いてはならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                           --つづき

先生
だからそういう点では、難しくてもあきらめずに頑張るしかない。仏道修行というものはそういうもんです。それで十年経っても、二十年経ってもできなかった、死ぬまでできなかったという事があったとしても、死ぬまで頑張るのが仏道修行です。だから「これは難しくて俺の手におえないから、他のいい手は何かないだろうか」という事を考えてみても、それはない。坐禅にはそういう厳しさがあるわけです。非常に簡単なことではあるけれども、厳しさが伴う。そのことが「仏道修行は厳しい」と言われることの一つの原因である。

それはどういうことかというと、人間の一度得た習慣を切り替えることがいかに難しいかという事につながるわけです。それと同時に従来の習慣を切り替えるだけの力量が人間に具わったならば、人生、どんなことでも怖くはない。どんな難しいことでも必ず通過するだけの力量がついておるという事です。人間が習慣を切り替えるという力ほど人間の力量として大事なものはないという事が言えるわけです。

各人が人生に苦しんで、悩みに悩んで、おかしな穴に潜り込んでしまうという状況というものは何からくるかというならば、過去の習慣です。過去の習慣から離れる、過去の習慣を自由自在に処理することが出来るという力量が人間に具わったならば、人生どんなことがあっても怖くはないと、こういうことが言えるわけです。だからその点では仏道修行というものが大切だと、こういう事にもなると思います。 

まあ、そういう事を言うと、大変厳しいことを言うようで「西嶋は頭が固くて、ろくなことを言わん」とこういう事にもなるわけですけれども、人生というのは甘いようで厳しい、厳しいようで甘い面もある、慰めになると同時に、厳しいもんもあるというのが人生です。そういう人生の実情というものに触れるかふれないかが、仏道修行が行われるか行われないかという事の境目になるとみていいと思います。

※私の独り言。
私は坐禅に出会うまではどう生きていいか分からず全く闇の中でした。私にとって、朝起きて坐る、夜寝る前に坐る、こんな楽な修行法はありません。道元禅師の「正法眼蔵」は知識として読むのではなく、実際の生活で役立ててこそ意味があるのだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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