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正法眼蔵 仏性 73

道元禅師の有(仏性はある)と言う主張は続きます。

僧がさらに質問した。:犬が現に目の前にいるという事は、仏性が現に目の前にあるという事は認めるとしても、どうして仏性というものが犬という皮の袋の中に入り込んでいるのでしょうか。

この僧侶の言っていることの意味を考えてみるに、現に今あるというだけの意味なのか、過去から未来にわたってずっと続いてあるという意味であるのか。現に目の前にあるという意味で質問した場合に、現に目の前にある、理屈ではなしに具体的にあるという事は、頭の中で考えられた「ある」という意味と同じようではあるけれども、具体的に目の前にあるというあり方というものは、独立独歩であり明々白々である。

そのような具体的に現にあるという事は、犬という皮の袋に仏性というものが入り込んだと理解したらいいのか、仏性が入り込んでいないと理解した方がいいのであろうか。そういう説明はともかくとしても、犬というものが現に犬の姿をして仏性を身につけて動き回っている具体的な動きというものは、うかうかと見過ごすようなことがあってはならない。

※西嶋先生解説
仏教が常に問題にするのは、頭の中で考えられた世界ではなしに、我々が具体的に動き回っておる世界、それを問題にするわけ。我々の動きというものも、頭の中で考えていることが意味があるのではなくて、人生なのではなくて、実際に体を動かしていることが人生。

だから、たとえば朝起きる場合でも、寝床の中で「さ、起きようかな」「あ、もう起きなきゃならないな」「あ、もう時間が来る」「わ、もう遅いな」といくら考えておっても、起きるという事とは別問題。起きるためには、やっぱり、否が応でもとにかく体を動かして、ノコノコと床の上に起き上がらなければ、起きたことにならない。ところが我々はえてして「さ起きなきゃならん」「もう遅い」というようなことで、頭の中で考えながら、「いや、やっぱり横になってあったかくぬくぬく寝てるのは気持ちいいな」と思って寝ているという場合が多いわけ。

それと同じことで、ものを考えるという事と体を動かすという事とは違う。釈尊が何を言われたかというと、我々は頭を使う事によって体まで動いているように錯覚するけれども、頭が動いていることと体が動いていることとは別だと、こういうことを言われたわけです。そういうことを基礎理論として一つの膨大な人生哲学を組み立てられたのが、仏教思想という事になるわけであります。



          ―西嶋先生に、ある人が質問した―

質問
坐禅の効果と言うのは・・・。

先生
坐禅関係の本を沢山読んで、知識が頭の中に充分に詰まったという事とは関係ないです。坐禅は体の状態の問題。しかも体の状態というのは、自分ではわからない。ただ長い年月がたってみて「前の状態と同じかな」って言うと「いや、どうも違う」と言うだけの問題。そういうことだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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