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正法眼蔵 仏性 72

道元禅師が趙州従諗禅師の無(仏性はない)と答えられた言葉を借りて、有(仏性はある)と言う主張をされます。

趙州従諗禅師にある僧が質問した。:犬には仏性(仏の性質)があるのでしょうか、ないのでしょうか。

この質問は、この僧侶が趙州従諗禅師が一体どんな返事をするかということを期待しながら問いを仕掛けたものであろう。この様なところから考えてみると、仏性というものについて意見を述べたり質問したりするという事は、仏教界の真実を得られた方々が常に日常生活において実際に行われていたところである。

趙州従諗禅師が言われた。:有。
趙州従諗禅師の言われた「あり」は、仏教を理論だけで勉強して論議を重ねている人々が言う「ある」と言う意味ではない。また、この世の中はすべて実在だと主張する仏教の一派において説かれるているところの「ある」と同じではない。そこで、仏教の世界で説かれている「あり」と言う言葉を学ぶべきである。仏教界で言われている「あり」と言う言葉の意味は、趙州従諗禅師が言われた「あり」と言う言葉の意味と同じであり、趙州禅師が言われた「あり」は、現に我々の目の前に走り回っている犬が現にあると言う状態と同じ意味での「ある」である。犬が現に目の前にいるという事は、仏性が現に目の前にあると言う事の意味である。


 
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
辞典なんかにも書いてありますが宗教というのは、ふつう言葉で簡単に説明できないような事を信じる事が宗教を信仰する事だと言っていますね。で、私は自らそういうことを体験しました。一例を言いますと、観世音菩薩に私は命を助けられている。「お前を助けてやる」と言って大病から助けてもらったのが一つの宗教体験というか神秘体験でありますね。いま語りましたけど「そんなことは、お前夢じゃないか、幻聴じゃないか」と言われても、これはしょうがないことですけど、それは一般人の事で、私自身は観世音菩薩に助けられたと信仰してますね。

先生
そういう場合に何によって救われたかというと、やっぱり生命で救われているんですよ。命が存続したという事によって救われたと、そう言うことです。ですから、あなたの中で観世音菩薩が現れて救われたというふうな解釈は成り立ちますけれども、ただ根源的に我々が何によって生きているかと言えば生命によって生きている。

したがって生命というものに非常に神秘的な力があるという事、これは仏教の立場で当然認めるわけです。ですからその点で、「いや、生命ではないんだ、もっと宗教的な観音菩薩によって救われたんだ」というふうに理解されるとしても、やはり人間の生存の根源は何かといえば、生命だというふうに言わざるを得ないと思います。

質問
四諦説を自分のものにしたいなといつも思いながら、どこを四諦として捉えたらいいのかわからないので教えてください。

先生
先ほど問題になった「神秘」を四諦という四段階で説明してみますと、一番最初の苦諦という立場に立てば、人間は普段は感得されないような神秘的なものがあるという主張が出てくるわけです。これは頭の中で考えれば、そういう神秘的なものがあるという事を信じることが出来るわけです。

二番目の集諦の立場に立ってみますと、人間と言ってみても、釈尊と言ってみても、手が二本、足が二本、血液が体中を駆け巡っていた、鼻から空気が入ったり出たりしていたから釈尊も八十年の生涯を生きられたという事も疑いようのない事実だという事があるわけです。

そうすると苦諦の立場では、頭の中で考えるから、神秘というものが当然のこととして出てきたとしても、今度は集諦の立場で、もっと現実的に、具体的に問題を考えた場合にどうかという事が出てくるわけです。ですからその点では、釈尊も手が二本、我々も手が二本、これくらい不思議な事はないではないかと言う主張にもなるわけです。

さらに今度は実践的な立場になりますと、正しいことをすれば釈尊も我々も同じだ、誤ったことをすれば釈尊と違った行いもできると、こういうふうな実践的な立場で問題を考えることが出来るわけです。これが三番目の滅諦の立場になるわけです。だから釈尊のやられたことが非常に神秘的だというふうに言うならば、我々もやりようによっては釈尊と同じことが出来ると、こういう主張が出来るわけです。

それから四番目の道諦の立場では、今まで述べた三つの段階を全部総合して、全部が含まれた何かというものの中に我々は生きている。だから三段階の考え方はそれぞれの立場から分析的に言葉で表現したわけですけれども、最終的な道諦の立場では、現実そのものがあるだけであって、それは言葉では説明できない。

だから足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っているという事態の中にしか、この世の実体というものは捉える事ができないと、こういうふうな主張にもなるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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