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正法眼蔵 仏性 71

「狗子に仏性ありや否や」という問答について道元禅師の注釈は続きます。

趙州従諗禅師が言われた:犬に仏性があるとか、ないとかと言う論議が行われるのは、過去の行動によって積み上げられた「ものの考え方」というものがあるから、仏性があるとか、ないとかと言う事が問題になるのである。

この言葉の意味は、物事をはたから第三者的に批評する立場からするならば、過去の行動によって積み重ねられたところの「ものの考え方」というものがあり、その結果、はたから見れば、論議が成り立ち得るのであるけれども、犬そのものは、あるとか、ないとかと言う論議を超越しているし、仏性もあるとか、ないとかという論議を超越している。人間が過去の行動によって積み上げたところの「ものの考え方」では、犬そのものの本質を理解することが出来ない。どうして「狗子に仏性ありや否や」と言う論議をする必要があろう。

我々のものを考える能力というものから考えていくならば、仏性があるとか、ないとかというものをすべて考えの中に取り入れても、すべて捨て去ったとしても、我々がものを考える立場からするならば、どうしても過去の行動によって積み上げられた考え方に捉われていて、初めから終わりまでそういう捉われた考え方から出ることができないというのが、我々のものを考える場合の実体である。

※西嶋先生解説
――このように趙州従諗禅師と僧侶との間の「狗子に仏性ありや否や」という問答に対する解説をしておられるわけであります。ここで言われている事は、犬は犬で絶対の存在であり、仏性があるとか、ないとかと言う事は余計なお世話だ。また仏性も、厳然と存在しているのであるから、犬にあるとか、ないとか、人間にあるとか、ないとか、あるいはすべての生きとし生けるものにあるとか、ないとかと言う論議も意味はない。ただ、我々のものを考える能力からするならば、過去の行動によって積み重ねられた様々な考え方があるから、あるとか、ないとかと言う論議をなかなか離れることが出来ないというのが実情である。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
景気がこれだけ低迷し、日本経済の活力が落ちているので、どの企業でもいかに起業家タイプの社員を育てるかという事がポイントになってきます・・・。

先生
その点では、一種の新たな合理主義が広まりつつあるんだと思います。理屈に合わないことをやっていては、経済競争に負けてしまう事が明白になったからでしょう。昔はそういうことを考えなくても生き残れたが、これだけ国際資本が流入してくると、理屈に合わないことをやっていれば会社が存続できない時代が来ている。正しい理論に従って経営することが不可欠の時代になっているんです。またこれだけ多様な情報が行きかっているので、特に若手社員は他社や他業界の情報にきわめて敏感になっており、企業内のそうした合理主義がなければ、白けてしまってついてこない。そんな状況でロイヤルチィを要求しても無理だろうと思います。

質問
今は不景気というより、優勝劣敗がはっきりする時代と言えるかもしれませんね。

先生
ええ。冷たい言い方かもしれませんが、経済的に成立しない企業がどんどん没落していく時代と言えるでしょう。したがって社会全体に重苦しい空気が漂っていますが、むしろ今が普通なんです。これまでは経済が不健康に肥大していただけで、今こそ落ちるべき贅肉がどんどん落ちている時代なんです。落ちていく当事者にとってはたまりませんが、経済全体をマクロ的に見れば、健全化の方向へ向かっていると言えるでしょう。
                       
                         ―2002年9月―


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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