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正法眼蔵 仏性 70

「狗子に仏性ありや否や」という問答にに入ります。

趙州従諗禅師にある僧が質問した。:犬には仏性(仏の性質)があるのでしょうか、ないのでしょうか。

この問題の趣旨をはっきりさせておく必要がある。狗子とは犬の事である。この質問は、「犬には仏性があるはずだがと質問したわけでもなければ、ないはずだと質問したわけでもない。「あなたは、本当の意味で仏道修行をしておりますか」と言う質問をしたに他ならない。趙州従諗禅師はこの様な形で、鋭い質問を受け苦境に立たされると言う機会を得たわけであるけれども、三十年以来、一個とは言わないが、半個ではあるけれども、非常に優れた人を見るという境地に出会う事が出来たのである。

趙州従諗禅師が言われた。:無。

この無という言葉についても学び方がある。仮に仏性が、自分で自分の事を説明する事が出来た場合にも「無」と言うであろう。また仮に犬がしゃべれたとした場合に、やはり「無」と返事をするであろう。また第三者が問われてもやはり「無」という返事をするであろう。ここで言う「無」とは、単に「ない」という意味ではなしに、あるとか、ないとかというものを問題にするのがおかしいと言う意味での「無」である。この様な意味であるとか、ないとかという論議を超越する時に、初めて難しい問題を解決する事が期待できるであろう。

僧がさらに質問した。:釈尊の説かれたところによれば、この世の生きとし生けるものはすべて仏性があると言われた。犬も生きものであるにもかかわらず、あなたはなぜ「ない」と言われるのですか。

この僧が言った言葉の意味は、すべての生きとし生けるものが、趙州従諗禅師の言われた言葉の意味で有とか、無とかという区別を超越したものだと言う事が言えるならば、仏性もあるとか、ないとかと言う事を超越した疑い様のない現実であろうし、犬もまた、仏性があるとか、ないとかと言う議論を超越した絶対の存在であろうし、この様な趣旨についてどう考えるかと言う事に他ならない。その点では、犬が持っている仏性に関しても、あるとか、ないとかと言う論議がどうして必要であろう。犬は犬として我々の目の前にあり、犬らしく動いている、犬らしく走っている、犬らしく寝ている、犬らしく物を食べている。仏性があるとか、ないとかと言う事よりも、もっと素晴らしい現実がそこにある。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をすると、ものを考えなくなるんですか。

先生
いや、そう言う事ではないんです。ただ、考えの基礎が安定していると言う事です。考えと言うのは、もうどんな事でも考えられるんです。頭の動きというものは、どんな事でも考えられるわけですけれども、仏教の場合には、一つの考えの基礎があって、その基礎を中心にして様々のものを考える。だから、安定しているわけです。

ところが、そういう中心になる基礎を持たずにものを考えると、人間の思想と言うのはどんなところへも飛んで行ってしまう。そういう点で、坐禅をした立場では考え方そのものが安定する。考えないと言う事ではなしに、色々なことを考えても、それが一つの基準を持ちながら考えが発展していくと言う事が事実です。
      

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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