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正法眼蔵 仏性 69

潙山禅師と仰山禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

仏性(仏としての性質)を明白に現わすとは、片一方の目を開くことなのであろうか。片一方の目を失ってしまうことなのであろうか。つまり、片目の人がもう一つ目をつけて、両目でものが見える様になった状態と言うべきなのであろうか。あるいは、片目の人が、余分な目をつぶしてしまって目の見えない状態になった時に、一切が見えてくる状態なのであるうか。このどちらの状態なのか、さあ、お前の考えを述べてみよ。

この様な捉え方で勉強していくならば、仏性に基づいた見方がこの様に優れた形に発展していくのである。このような形で、我々の生きている現実の世界は、半分のもの、あるいは全部のもの、いずれもが何ものにも頼らない独立独歩のあり方で存在するのである。百のもの、千のもの、あらゆるものがそれぞれ独立独歩でこの世の中にあるのである。百の時間、千の時間、百の瞬間、千の瞬間、我々の日常生活の瞬間瞬間の一切が、何ものにも頼らない独立独歩の存在である。

このような世界というものが我々の現実に生きている世界であるから、ある見方からすれば、人間を悩ます障害で充満した世界である。しかも、一日一日における個々の具体的な時間でしかありえない。何ものかに頼るとか、何ものにも頼らないと言ってみても、それは葛藤(ツタ・フジ)が他の木にまつわりついている様なもので、その実態は複雑でありながら、同時に安定しているのである。我々はこの天地の中で、いっぱいの生き方をしていくのであるけれども、それと同時に現在の瞬間を取り逃がしてしまうと、何らの意味も残らない。

※西嶋先生解説
仏教の世界では、障害と我々との生活とが全く一つのものになってしまうときに、自由があるという考え方をするわけだ。その点ではどういう考え方をするかというと、「あれもいけない、これもいけない」と思って、一所懸命逃げ回っておれば、そういうものは何処までもくっついてくる。だからそういう実体をよく見極めて、その中にわが身を置くとき、障害が障害でなくなるという問題になる。我々の生き方というもの、仏道の生き方というものは、そういうもの。だから「あれをやっちやいけない」「これもやっちゃいけない」と言って逃げ回っておっても、決して問題の解決にはならない。むしろ現実の中に我が身を置いて、二十四時間一所懸命生きていけば、障害というようなものは何もなくなってしまう。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
卑近なことなんですが…。先週、身内の者に不幸がありまして、親戚の人等と会う機会がありまして、その場合、私が長く坐禅をしていることは周知の事実なんで、中には私を坊主と間違えられたり(笑)どっかの住職だなんて言う人もあったんですが。そういわれると、ことさら気張ってそういう人たちの見本になるような気構えですな、無理してそういう態度があったという事を反省というか、何か考えているんですが、それはやはりいけませんかな。

先生
そうね、やっぱり、それも一種の色気ですね(笑)。

質問
色気だ、確かにある。

先生
いや、世間、色気があるという事はかなりありますよ。だから「さすがあの人は」と思われたいという気持ちが、よくありますよ。

質問
そこまではいかなかったか知りませんけれども、しかし、良い影響を与えたような気がしますね。だからこの態度を改める必要もないんじゃないかと私は思うんですが、これはどういうものでございましょう。

先生
だからその辺は、自分の本質が出てくればいいんですよね。無理しないでね。だけど、カッコイイところを見せようという気持ちはよくあるわけでね。

質問
名利(名誉と利得)の心でしょうかね、これも。

先生
ああ、まあ…。それで、そういう気持ちがあると、自分の動きが不自由になるんですよ。

質問
なりますね、なる。

先生
だから小さくなっちゃう、実質的にわね。(笑)

質問
虚栄ですね。

先生
ええ。

質問
やっぱりそうかもしれませんね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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